金木犀の糸


 

 

「せんせ、あまいにおいするよ」

短い足を必死に動かして走ってきトシくんが私のエプロンを引っ張る。彼は鼻から鼻水をだしたまま走り回っていたらしく、鼻水が固まっていた。

「もう、トシくん鼻水つけっぱなしじゃない」
「うん、ねえ、あまいにおいするんだってば」

鼻をふいてやろうとしゃがみこもうとしたのに、トシくんに手をとられて前につんのめりながら走った。遊具の並ぶ園庭を横切って、そこを囲む背の低い木々の前まで手を引かれた。不意に甘いにおいがめいっぱい鼻孔を満たした。同時に切なくなり、愛おしくなる。

「ああ、金木犀の時期なんだ」
「え?き、きん?」
「金木犀。ほら、この小さい黄色いのがお花で、いいにおいがするでしょ。秋の証拠よ」
「ふうん、きんもくせい」

トシくんは下に落ちていた花をいくつか手にとって、嬉しそうに笑っていた。すかさず鼻水を拭いてやる。もっと嬉しそうな顔で、金木犀の花を差し出したその手は驚くほど小さかった。



園からの帰り道、自分が気づかないだけでずいぶんと金木犀の匂いがあふれていることに気づいた。もう、秋も深まっているのだと毎年この匂いで気づかされる。誰かの家の庭に咲いているもの、小さな公園に咲いているものも、黄金色の花をつけて熟れている。
自分が小さなころは、この甘ったるく強いにおいが苦手だとは思っていたが今になっては甘くて優しい匂いに思えるようになった。小さな花がかわいい。大人になると味覚がかわると言うが、嗅覚も変わるものなのか、そもそも心境の変化か。心境の変化など、あったのか。少し考えて、しかし核心に触れるようなことはしない。見たくないものにはうまくふたを。大人になったのか。
顔をあげると暮れなずむ空がそこに広がっていて、切ない、と自然に声がもれるようだった。

玄関のドアを開けると、ふわりと甘い匂いがした。金木犀の匂いだ、と直感的にわかる。そして胸の辺りをちくちくと針でさされるような、いやな気持ちになった。

「あっちゃんお帰り」
「イト、来るなら来るで連絡ぐらいして。女の一人部屋に何も言わないで来るなんて、どうかと思うけど」
「誰が俺に鍵を渡したの?」

墓穴をほった。何が大人だ。

8畳の部屋の角にあるベッドに、イトはのびのびと寝転がってにんまり笑って私を見た。甘い匂いの源は彼であり、テーブルの上においてある金木犀の枝だろう。すでにテーブルに小さな花が落ちていた。

「勝手に持っていったんでしょ。盗んだって言ったほうが正解」
「俺にとられたくないなら、ちゃんとしまっておけばいいんだよ。あっちゃんつかれてるの?」
「甘い匂いに少しめまいがする」

さっきまでは、愛おしく思えた匂いも途端にうんざりして、テーブルの枝をキッチンの流しに置いた。



伊藤犀次(いとうせいじ)、愛称イト。
 

名前の「いとう」から来てるのかもしれないし、そのひょろひょろした体つきから来てるのかもしれないし、イト、なんて単純で、飼い猫につけるような名前が似合ってしまうほどヒモみたいな男だからか、とにかく私は彼のことを名前で呼んでいる人を見たことがない。みんな、イトと呼ぶ。

イト、というとなんとなく「蜘蛛の糸」を思い出す。園には同じ絵本が三冊もあるからか、入園する子どもはさして興味もないだろうけれど話をすっかり覚えてしまう。
黒い表紙に、赤字で「くものいと」の字。白い蜘蛛が白い糸にぶら下がっている絵。幼児に読ませるにはあまりにもシュールなデザインだけど、妙に人気の絵本だった。
釈迦の垂らした細い蜘蛛の糸に、カンダタはすがる。地獄で苦しめられた他の人間も、その糸にすがる。欲が欲を呼び、欲のせいで結局誰一人として助かることはなかった。
3歳、4歳の子どもたちにはまだ早いような教訓めいたその話は、いやにリアルだ。

欲が欲を呼び、糸が切れてしまう。

だけど私の目の前にいるイトには、欲というものがまったくないように思える。彼は欲がない。かすかすだ。きっとその細いからだの中に、欲なんていうものを入れる余裕がないのかもしれない。ふらふらやってきて私を抱いて(私に抱かれて、が正しい)好きに寝る。必ず、金木犀の甘い匂いをさせながら。



「んん、やっぱこの時期の布団ってすげえ気持ちがいいなあ」

夕飯のカルボナーラを食べて、彼はまたすぐにベッドに横になった。私は、そんな彼を横目にビール缶片手にベランダに出る。結局、イトが勝手に折ってきたという金木犀の枝を捨てることもできず、室外機の上に置いた。たまにおもいだしたように、芳香が鼻をくすぐる。いいにおいなのに。

「ね、あっちゃん」

いつのまにか後ろに立っていたイトは、人懐こい動物のように私に擦り寄ってくる。彼の頬が首筋にすれるたびに、人工の金木犀の匂いがたちのぼった。匂いにだまされる。答えないでいると、彼の細くてしなやかに動く手は私の腰をとらえてぎゅう、と抱きしめる。私よりもよっぽど華奢なはずなのに、その力はどこからでてくるんだろう。

「・・・・・・・やめてよ」
「なんで?」
「私もう、そういうことしないって決めてる。慰めになら他の子使って」
「でも、あっちゃんの声は嫌そうじゃない。俺、3歳児じゃないんだけど?」

振り払おうとして、ふりむきざまに手をふりあげたがそのたびに甘い匂いがする。

トシくんの差し出した小さな花。ほのかな匂い漂う、室外機の上の枝。だけどそんなものを塗りつぶしてしまうほどの、イトの金木犀の香り。欲だらけの私は、こんなにもうそ臭くて、細くて、頼りない糸にすがってしまう。



それからしばらく、イトは私の部屋で気ままに過ごしていた。何を言ってもきっと自分の欲深さを見る結果になる気がして、私もさしてとがめることもしなかった。
大学の同じゼミをとっていたころから、彼は秋口ごろに私の部屋にきて過ごしては冬に入るころにはだんだん足が遠のいていった。そんな生活がもうどれだけ続いているのだろう。大学を卒業して、保育士として生活を始めるにあたって引っ越したのに、秋、そう、金木犀の匂いが漂いはじめるころになると彼はきまって私の家の前にいた。自然、金木犀の匂いは切なくて、愛おしくて、見たくないものの代名詞になる。
彼氏がいても、秋になると必ず別れた。きっと、私みたいなカンダタは何人もいるということ、わかっているはずなのに、秋を待つ。



「せんせ、きんもくせいの花、ちゃいろくなっちゃったよ」

トシくんは外から急いで中に戻ってきたのか、頬を赤く染めて、やはり鼻水をたらしている。その手の中には、ごみのような茶色い塊がいくつか握られていた。

「やだ、トシくん何してるの」
「きんもくせいの花がね、ちゃいろくなってね、落ちててひろったの」
「そっか、もう冬になるからね」

萎れてしまった金木犀の花を見て、いつのまにか忘れてしまった室外機の上の枝を思い出した。きっとあれも見る影もなく、匂いもなく、静かにかれてしまったのだろう。ベランダに出ても、気持ちよくなく寒い、しか感じなくなってしまったから、忘れていた。そうか、もう、イトはきっといなくなる。

「じゃ、金木犀にバイバイ、だね」
「うん。せんせも、もうあまいにおいしなくなっちゃったね」

答えることもできず、子どもに見せるべきではないような曖昧な笑顔しか返せなかった。糸が切れる。そう思った。



園からの帰り道、あの金木犀をいくつも見つけた道で自分でも気づかぬうちに、必死になってまだ金木犀が咲いていないかを確かめていた。そしてきっと、玄関のドアをあけてあの甘ったるくて、切ない匂いがもうしないことを知ることになる。
糸が切れてしまったことを知る。


END

***
書きたいことを書きたいだけもじゃもじゃ書いたらこういうことが起こるということを、何度やっても学びません。こんにゃく的王道な小説だと思います。いろんな意味で(殴

 

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