丸屋―――3 ごちゃごちゃとした玄関にはかぞえきれないほどの靴が散らばっていた。子供用の運動靴も、女性用のヒールの高い靴も、そしてその上に今さっき丸屋が脱ぎ捨てたスニーカーがかさなる。入ってすぐ正面に仏壇があったが、扉はしまっていた。俺が靴を脱ぐのをためらっているのを察したのか、彼は松葉杖を器用につかって、たたきに散らばる靴をばらばらと片側に固めた。そのスペースに靴を脱ぐ。 玄関を入って仏壇すれすれを右に曲がる。狭い。その言葉しか思い浮かばない。八畳あるかないかの居間にはほとんど隙間がなく、大半をおおきなちゃぶ台が陣取っていた。その上にも、床にもとにかくありとあらゆるものがちらばっている。絵本、ランドセル、エンピツ、食器、ごみ、雑誌、とにかくなんでも。隅に置かれたゴミ箱がひっくりかえっている。洗濯物にうもれてテレビがある。 ただ、これだけごちゃごちゃしているにもかかわらず室内はひっそりとしていて、暑いはずなのに静かに汗がひいていくような気がした。人特有のにおいはするが不快な感じはしなかった。丸屋は松葉杖を放り投げるとかばんもその上にのせた。ひざを気遣いながらゆっくり座る。俺が突っ立っているのを見上げている。 「汚くて悪い。たぶん、こんなスラムみたいなとこに住んでるのマンガみたいだろ」 「いや…丸屋、俺どこに座ればいい?」 彼はふと、今まで見た中で一番やわらいだ表情だった気がする。どこでも自由に座ればいい、といわれたので床に散らばるいろんなモノたちをいくつかどけてみると意外にもあっけなく、古びた畳が顔を出した。 「兄ちゃん、帰ってきたの?」 不意に丸屋の後ろのふすまから声がして、小学生ぐらいの男の子と女の子が出てきた。すぐに兄弟なのだと察しがつく。二人がとても丸屋にそっくりだったからだ。目、が。二人は丸屋の顔をのぞきこみ、そして俺に視線を移す。会釈をすると、女の子の方はにこりと笑ったが男の子の方はすぐに目をそらしてしまった。 「お前ら、外で遊んでこれば。園子帰ってくるには時間あるし、夕飯もまだだろうから」 「うん」 女の子の方が返事をして、男の子を連れ出す。俺の後ろ―といったって何センチあるかないかの隙間だ―を飛ぶように抜けると、玄関から出て行った。途中、どこに台所があるのかわからないが、女の子がコップと二つとペットボトルに入った麦茶を持ってきて、ちゃぶ台の上に積み重ねてあった雑誌の上に置いた。 「弟と、妹?」 「あ、うん。俺、一番上で三つ下の妹がいて、さっきのが六個下の妹。弟は八個」 「四人兄妹なんだな」 「まあな。桶川は?」 「俺は一人っ子だから。うらやましいよ、兄妹多いの」 「そうかな。園子…三つ下の妹だけど、あいつはいつも一人がいいって言ってる。いつも夕飯作るのは園子だから」 「そうか」 「うん」 部屋が静かになる。夕闇がせまってくる。どこかで犬が鳴いていた。丸屋がオレンジ色の髪の毛をかきあげる。俺は麦茶を飲む。なんともいえない空間で、俺だけが異物みたいな気がしてきた。麦茶はよく冷えていたが、なぜかコップが少し温かかったのですぐに生温くなる。 「俺、たぶん」 帰るよ、と言って立ち上がったときに丸屋はふと思い出したように言う。 「高校、卒業したら働くと思うんだ」 「兄妹、多いもんな」 「高校に行ってるのだって、ほとんど働くためだ。中卒なんて雇ってくれないしな。高卒だってどうかと思うけど、今は。けど、今は学校行ってるの楽しいと思う。桶川、いるしな」 暗い室内で、いつもわかりにくい丸屋の表情はもっとわからない。だが声からわかる彼の感情は、決して負ではないはずだ。 「愛の告白かよ、丸屋にモテてもなあ」 「ほざけよ」 丸屋がけたけた笑う。俺も笑って、家に向かった。 後期の夏休みの補習は盆明けから始まった。が、丸屋がこない。後期の補習で彼と同じ科目は一つしかとっていなかったが、あのオレンジ頭がないのはどうも落ち着かない。ヒロミも同じ科目をとっていて、俺が丸屋のことに触れるとやはり怪訝な顔をして 「もともと、学校に来ないほうがふつうだったじゃん、丸屋くん。今ごろ遊んでるんじゃないの?」 と言う。 「お前な、言っていいことと悪いことがあるよ」 と言い返したところ、彼女は不機嫌そうにため息をついただけだった。 その日、俺は補習が終わってすぐに丸屋の家に向かった。彼の家に向かうほど、蝉の声が遠くなっていく。かすかにミンミンゼミの鳴き声も混じっている気がする。夏ももう、終わってしまうのかもしれない。確かに、夕方になればなるほど涼しくなっている気がする。この時期にむしょうに切なくなってしまうのは俺だけだろうか。丸屋は、同じことを思うだろうか。学校にいる間、何度か連絡をしてみたものの通じなかった。 足の具合も気になる。もうすぐ包帯もとれて、松葉杖なしでも歩けるはずだ。それなのになぜ学校に来ないのだろう。 俺は、丸屋と事故った日みたいに必死に自転車をこいでいる。 彼の家の前に自転車をとめたのは、空が薄紫色に染まる頃だった。生暖かいがそれでも、火照ったからだには涼しく感じられる風が吹く。一度深呼吸をしてから丸屋の家に向かった。チャイムなんてものはついていない。引き戸になっている玄関も、その奥の部屋も暗い。 戸をあけるとやはり大量の靴の山が目に飛び込んでくる。松葉杖がおいてある。スニーカーもある。丸屋はたぶん、家にいるのだろう。 「こんにちは、桶川ですけど。丸屋、いる?」 「桶川か。ここの家に住んでるのはみんな丸屋だけどな」 丸屋の声だ。玄関から顔を覗かせて居間を見ると、布団を敷くスペースができていて、そこには丸屋が寝ていた。額にはタオルがのっている。 「お前、熱?」 「ああ、そうみたいだ」 靴を脱ぎ捨て、部屋にあがる。電気をつけてみたものの、どことなくまだ暗かった。丸屋の枕元に胡坐をかく。久しぶりに見た彼は少しやせたようではあったが、目の力はまだそこにある。 「いつから?」 「一昨日の晩ぐらい。急にでてきて、足も痛んでる」 「病院は?」 「いけてない。病院は嫌いなんだよ。うごけねえし、今」 タオルをのせているから、丸屋の額の生え際がよく見える。黒い毛がちらほらとのびていた。 「俺、自転車だし後ろ乗れよ。乗せてく」 「いいよ」 「よくない」 ぐずる丸屋を半ば強引に起こして、自転車の荷台に座らせた。きたときほどは飛ばせないが、めいっぱいペダルを踏み込んだ。いつのまにか日暮れも早くなっている。濃紺の空がせまってくるようだ。蝉の鳴き声が徐々に控えめに遠く、なっていく。田んぼの道は足に響くのか、熱のある頭にひびくのか、丸屋は始終、俺のわき腹あたりのシャツをぎゅっと握っていた。 結局、熱が出たのは本当に少しだけだが足の化膿した部分が原因だったらしい。毎日きれいなガーゼと包帯に交換して、丁寧に消毒をすれば痛みもひくし、熱もさがるだろうと医者に言われた。 「足、腐ってなくてよかったな」 「だな、ろくなことがねえよ」 帰り道はすっかり暗くなっていた。田んぼの道は一つも街灯がない。自転車の電灯だけがたよりだ。気分がよくなったのか、丸屋がふざけてからだを左右に揺らすからバランスがうまくとれない。俺たちは近所をはばかる理由もないので、大声で笑いながら道を蛇行運転する。初めてここを通ったとき、こんなにも涼しくなかった。こんなにも丸屋とは笑えてなかっただろう。 「なあ」 あの家の集まりの明かりがちらほらみえてきたとき、丸屋がぽつりと言った。続けて、止めろ、といったので素直に止める。キキッとブレーキがなく。彼は荷台からおりて、サドルにまたがる俺の横に立った。暗闇の中でぼんやり浮かび上がる丸屋はまるで幽霊みたいで、今にも消えていくのではないかと思われるほどだった。オレンジ色の頭と、あの目だけが鮮明に思い出されるが、今俺の横にいる丸屋は何一つはっきりしない。確かに丸屋はそこにいるし、輪郭がぼやけているわけでもない。だけど、なぜだろう。とても不思議な感覚だった。 「あ、丸屋、お前歩けるじゃん」 「まあ、ちょっとふらふらするけど」 ひやりとしたものがハンドルを持つ手に触れる。いやに緩慢な動きだったが、それは丸屋の手だった。 汗ばんでいるのに、冷たい。 何? 聞き返そうと口を開いた瞬間だった。 丸屋の顔がこっちに近づく。あの目がこっちを見ている。 そう思った瞬間だ。 口と口が触れた。 違うな。 キスをした。 それは本当に一瞬のできごとで、だが何十秒にも思えたって、なんかどこかで読んだようなフレーズがぐるぐると頭をかけめぐっていた。だけどたぶんそれは、一瞬のできごとじゃなくて、実際、何十秒であったはずだ。俺の手に置かれた丸屋の手に、力が入る。相変わらず冷たいが。 「な、おまえ」 ずっと冷静だった頭と、衝撃に打ちひしがれている体がつながった結果、俺は丸屋を突き飛ばし、その衝動でバランスを崩して自分も自転車と一緒にそこに倒れた。カゴに入れていたかばんが飛び出て、稲がそよぐ田に飛び込む音が鮮明にした。それほど辺りは静かだった。 「何…考えてんの?」 丸屋は答えない。彼は立ったまま、俺を見ている。まるで俺だけ突然こけて、ただ丸屋を攻め立てているようにしか思えない。が、確かに、唇と唇が触れ合った。生暖かく、少しカサついていた。生々しい感触。 「何、なんだよ」 心臓がやぶけそうなほど鼓動を打っていて、声もばかみたいに上ずっている。丸屋は目をそらし、ふらふらと歩いて闇に消えたと思うと、俺のかばんをひろいあげて戻ってきた。俺はよろよろと自転車にはさまれた足を抜き、自転車を起こしながら自分も立ち上がる。ぶつけたひざが痛かったが、それどころではなかった。丸屋は無言で俺のかばんをかごに入れる。 「桶川、さ」 不意に名前を呼ばれ、今度は何があるのかと身構えると彼は思いもよらず笑った。けれどその声は震えている。 「あの、なんだっけ。宇和島ヒロミ?のこと好き、なんだろ」 「なんで」 「見てりゃわかるよ」 ああ、とも、んん、とも曖昧な答えしか出なかった。何よりも今の、キスの、意味ばかりを頭の中で考えてしまっている。 ふと、また冷たいものが触れた。やっぱり丸屋の手だった。手の甲にすべての神経が集まる。体がこわばる。 「なんもしねえよ。びくってんなよ。じゃあ、俺帰るわ。ありがとな」 何かを答える前に、彼は去っていく。ふわりとかすかに汗のにおいがする。手が離れた。丸屋が遠ざかっていく。派手な髪の毛と、彼の着ている白いTシャツがぼんやりと、遠ざかっていくのを少し見送ってから、俺はUターンして自転車をこぎはじめた。 生温い風は、やはり気化熱を起こしてびっしょりと汗をかいて火照った体をジワジワと冷やしていく。 to be continued |