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その人の名前は
そのころ、よく変質者がでるという噂が学校で飛び交っていた。夕方になると、電柱に隠れて学生の動向をうかがっているらしい。特には危害を加えず、ただ見ているだけ。それを変質者というのはどうかと思うけれども、目深にチューリップハットをかぶりサングラスをして、トレンチコート、といういわゆる「絵に描いた変質者」の様相だから、仕方がない。隣の学区に二、三回現れたからもしかしたら今度はうちの学区かもしれないと、きいちゃんとなおちゃんは騒いだ。
そりゃ初夏だもん、変質者だって出たくなるさ、と言うと二人は腹を抱えて笑った。
「寿美子が変質者なんじゃないの、そんな知った口きいちゃって」ときいちゃん。
「友達になって露出の仕方、教えてもらえば」となおちゃん。
変質者ったって、露出なんかしないんでしょ、とムキになって答えてしまい、また笑われた。
学校では、友人と二人以上で帰れとの指示だったし、いつもそうしているから私たち三人は仲良く連れ立って歩いていた。
中学生にはありきたりな隣のクラスの誰が誰を好きだとかいう噂話は中々盛り上がったけれど、そして私が変質者と友達になれる、というくだりに入って笑いあい、きいちゃんと別れた。なおちゃんとはまだしばらく一緒の道をいく。
「六月って言ったら寿美子の誕生日だ。何かほしいのある?」
「なおちゃん、気が早いよ。まだ五月もはじまったばっかりだし」
「こういうのは早くから決めておかないといけないよ。きいと相談しようかな。お楽しみに!」
「チューリップハットにサングラスはやめてね」
なおちゃんはにやりと笑って手を振り、角を曲がっていった。私の家もすぐそこのアパートだ。少し小鼻に浮いた汗をぬぐいながら、駆け足で向かう。
今日は母さんの仕事が遅いから、私が夕飯を作る日だ。まだ熱のこもるアパートの駐車場をつっきって、階段下にある郵便受けを確かめて階段を上る。半分ぐらいまで上ったとき、ふと視線を感じて振り向いた。
え。
心臓が一瞬止まってしまったような、そんな感じ。汗が引いていく。
変質者がいる。一目でわかった。
アパートから少し離れた電柱の陰にかくれて、こっちを見上げている。ここにくる途中にあの電柱の前を通ったはずなのに、気づかなかった。大きなサングラスと、噂のチューリップハットの所為で表情は読み取れないけれど、ぽかんと大きく間抜けに、口をあけていた。
私は大きく息を吸う。いやいやいや、こっちを見ているのではないのかもしれない。自分にそう言い聞かせた。友達になれるだなんて、冗談でも言うんじゃなかった。絶対になれない。雰囲気がおかしいじゃないか。
幸い、私の住む部屋は一番奥だし、それでなくても彼の位置からこのアパートのどの部屋の玄関口からは見えない。隣接する、一階分多いコーポの陰だし、と階段を踏みしめるようにのぼって廊下に引っ込んだ。だだだだ、と走って震える手で鍵をあけ、中に飛び込む。
深呼吸をして、その場にへたりこんだ。間違いなく変質者だった。誰にも言わないでおこう、とひそかに決意する。なんだか、おばけみたいに「誰かに言ったらどうなるかわかってるんですか」って言われた気分。
話によれば、あの変質者は場所を変えて現れるというし、何もしてこないというし。今日だけ、しかも目が合ったか合わないかの短い間だ。実際何もされなかった。大丈夫、大丈夫。何度も自分に言い聞かせた。
次の日からテスト週間にはいり、部活もなくて早い時間に三人で帰った。夕方、と呼べる時間でもないから変質者の話はでなかったし、私もしなかった。変質者自体もいなかった。やっぱりどこかにいったんだな、と窓から覗きつつ洗濯物をしまった。
テスト最終日、きいちゃんとなおちゃんは駅前の本屋に行くといったので二人とは学校の前でわかれた。今日は、母さんが早く帰ってくる日だから久し振りに母さんのご飯が食べられる。
私には父親がいない。私が三歳のときに離婚したのだと聞いた。だから母さんが女手ひとつでここまで育ててくれた。仕事で夜遅くなる日もある。久しぶりにゆっくり、二人でご飯が食べられる。そう思うと自然に浮き足立った。
そんな私の目に飛び込んできたのは、階段下、郵便受けの前に立っている、チューリップハット。最初意味がわからずしばらく呆然と立ち尽くす私を、変質者はキョロキョロと泳ぐ視線でキャッチした。サングラスはしていない。だけどあの間抜けな口元と、何よりチューリップハットとトレンチコート。意外と若そうで、不細工でもなんでもない、普通の男の人。
私の中では変質者。
いや、でももしかしたらアパートに住む人の知り合いとか、近所に住む人の知り合いかもしれない。固まる思考をほぐそうとして、こじつけもはなはだしいことを考える。もしそうだとしたら道を聞かれるかもしれないし、そうしたら笑顔で答えよう。
しかし私の額からは汗が流れ落ち、頬はこわばったまま動かない。笑える自信なんてゼロだ。
なんとか踏ん張りながらアパートを目指す。できるだけ変質者と目をあわさないように、階段に近づいた。彼の目は私を追う。口は間抜けに開いたまま。
よし、このまま駆け上がろう。
決意して階段に一歩足をかけたときだった。
「あのう」
変質者がしゃべった。噂と違うじゃないか。
しわがれて、だからって年寄りなわけではなくて、ずっとしゃべってませんでしたっていう感じ。だけど半パニック状態に私に話しかける方が悪い。叫び声をあげる一歩手前で母さんの声がした。
「寿美子!」
私も変質者もびっくりしたけれど、私はその隙に階段を駆け上がって部屋に飛び込んだ。汗がどっと噴出す。気持ちの良い初夏の空気が、こんなに鬱陶しく感じられるとは。おそるおそる窓をあけて、外をうかがった。母さんは駐車場に立っていて、変質者はいそいそと出ていくところだった。
「寿美子、あの人知ってる?」
「知らない。学校で言ってた変質者だと思う」
「前もいたの?」
「うん、テスト週間の前。きいちゃんとなおちゃんには言わなかったけど」
「母さんにはちゃんといいなさい」
肉じゃがを口いっぱいにほおばってうなずいた。母さんも満足げにうなずきかえした。
それから二週間ほどして、梅雨に入った。六月は自分の生まれ月だけど、あまり好きにはなれない。雨ばかりが続いてなんだか動きにくい。変質者はすっかり現れなくなり、誰もが忘れていた。
あと二日で誕生日、という日に母さんは休みがとれてちょうど日曜日だったから、二人でケーキを焼いた。昼ごろには、きいちゃんとなおちゃん招いて、ささやかな誕生日パーティー。二人はシルバーの星のチャームがついたブレスレットをくれた。母さんは化粧ポーチとマニキュア。四人で楽しく過ごした。
きいちゃんとなおちゃんが帰り、洗い物をしているころにはもう六時をすぎていた。
「母さん、夕飯どうしようか」
そう問いかけたのに、返事がない。横で皿を拭く母さんは、じっと壁掛け時計を見つめてた。
「どうしたの?予定あるの?」
「え?ええ、六時半ぐらいに…」
「誰かくるの?」
「ああ、うんとねえ…」
いまいちはっきりしない。母さんは何かを言うのをためらっているのはわかったけれど、その何かがわからない。不意に、窓に雨粒の当たる音がした。
「雨降ってきちゃったね」
「すごい降ってきたわ」
お互いにつぶやくようにしていたときだった。チャイムが間抜けな音をたてた。
母さんが息を呑むのがわかった。動こうとはしない。私はおかしいな、と思いながらも覗き穴を見た。
「え」
一瞬、何かわからなかった。
外に立っていたのは男の人で、でもその人はチューリップハットをかぶっていた。まさか。なんで。
変質者。
ドアを開けないでいると、彼はドンドンとたたき始めた。私は恐怖におののいた。
「母さん、あの、あの、あの、変質者が…!」
それなのに母さんは驚くこともなく、はあ、と深くため息をついた。
「寿美子、理恵子、いるんだろ。俺だよ、俺。俺だ」
外の変質者は私の名前も、母さんの名前も、知っていた。怖い。なんでこいつが知っているんだろう。すると、母さんは静かに覗き穴から外をうかがうと、鍵をあけた。変質者はゆっくりはいってくる。全身ずぶぬれで、もちろんチューリップハットからも水が滴っていた。その手には、花束。
「誕生日、おめでとう、寿美子」
母さんは、申し訳なさそうな顔をして、私を見た。
「寿美子、この人ね、父さんよ」
「いや、全然どこに住んでいるのかわかんなくて一生懸命調べたら、ここらへんに住んでるってことがわかってさ。寿美子は中学二年のはずだから、中学校の近くにいたらわかるかなあと思って学校の近くをうろうろしてたんだ。俺の顔を知ってて、俺が会いたがってるっていうのがバレたらさ絶対逃げられると思ったんだよ、俺はさ。でもはじめて寿美子を見つけたときは感動したなあ。初めて会ったときの理恵子にそっくりなんだもんよ」
変質者―じゃなくて私の父さんは、頭をバスタオルで拭きながらけらけらと笑って、一息に話してくれた。あのチューリップハットは、以前母さんが父さんに作ってあげたものらしくて、それをかぶれば私がわかるだろうと思ったらしい。そんな話は一度も聞いたことがないから、わかるわけがない。
テスト週間中に出なかったわけを聞くと、出なかったわけではなくて、私たち中学生が早い時間に帰ってくるのを知らなくて部活が終わったころを見計らってここらへんで待っていたから、自然と会わなかったようだ。
「トレンチコートなんか着てるから変質者に間違われるんだ」
「俺、トレンチコートが一番大好きなんだよね」
私は手にもった花束を見つめた。季節なのかそうじゃないのか、真っ白なバラとカスミ草がゆれている。甘い匂いがした。
母さんは、父さんを部屋にはあげなかった。彼にバスタオルをぽいと渡すとドアを閉めたのだ。私は何がなんだかわからないまま、母さんの苦しげな横顔を見る。目が、合う。
「ごめんね。本当は寿美子にも言っておくべきだったんだけど、あの人、父さんなの」
「う、うそでしょ」
外で待っているはずの父さんは、静かだ。さっきみたいにドアをたたいたりはしない。もしかしたら、中の会話が聞こえているのかもしれなかった。
「寿美子の誕生日に会いたいって、言ってたの、この間ね。私は迷ったんだけど、寿美子ももう子供じゃないし、一度会っておいてもいいかな、と思ったのよ。だからって強要はしないから、寿美子がが話したいなら話せばいい。嫌なら私が帰すから」
そう言うと、母さんは居間に行って、座った。こちらに背中を向けている。嫌もなにも、話したこともわからないんだから、選ぶにも選べない。私は何を考えるわけでもなく、外に出た。
横目で父さんを観察する。チューリップハットをとった彼は、少し髪の毛が薄かった。猫っ毛っていうのかな。なんだか全体的にふにゃふにゃして、いい加減に見える。しゃべっている間もじっとしていなくて、体がふらふた揺れている。
ごしごしとタオルで体をふくたびに微かに油の匂いがした。顔色が少しよくないように見える。
「仕事、何してるんですか」
いまいち、敬語を使うべきなのか使わなくていいのかわからない。本当に、この男の人と血が繋がっているとは思いにくい。
「絵を、少しだけ描いてる。イラストとかも、少し。油絵も描くよ」
「少し油の匂いがする」
「わかる?へえ、いいねえ」
ニヤニヤ笑う。その笑った目の形が、少し自分に似ているかもしれない。
「母さんの絵も、描いたこと、ある?」
「ない」
ふにゃふにゃ動くくせに、言い切った。断言した、っていう表現がぴったりな言い方だった。
「なんで」
父さんは答えなかった。代わりに、きれいにたたんだ濡れたバスタオルを渡してきた。
「帰るよ」
「え」
「あ、その顔。理恵子にそっくりだな」
ニヤニヤ、笑う。体はじっとしていない。私は右手に花束、左手にバスタオルをもって、そこに立ち尽くしていた。
「名前、聞いてない」
「もう、会わないのに教える必要もないだろ」
「でも」
なんて呼んでいいのかわからない、といって口をつぐんだ。もう会うことがないし、きっと名前を呼ぶようなこともないのだろう。彼はそんなこともうわかっていたのか。そして、ちゃんと呼び名はある。
父さん。
私はまだ呼んでないけれど。
「今度、じゃあ、描いて」
背を向けた父さんに、そう言う。彼はしっかりチューリップハットをかぶっていた。
「何を?」
「わ、私」
「気が向いたら」
父さんはこっちを見ないで、帰っていった。
それから一年後の誕生日に、私に絵が届いた。スケッチブックみたいな薄っぺらい紙にエンピツで輪郭をとられた私は、絵の具で淡く色づいている。母さんはその絵を見て、少し泣いた。私はどうしてそのタイミングで絵を送ってきたのかは、わからなかった。
そして今、私はウェディングドレスをまとって、母さんとバージンロードに立っている。真っ白なドレスは、中学二年の誕生日を思い出させる。バラと、カスミ草。
「寿美子」
母さんがかすれた声を出す。私は返事をしたら泣いてしまいそうで、聞いていることを示すために少し顔を傾けた。
「父さんね、本当はもう亡くなってるの」
「え」
「その顔、父さんにそっくり」
しばらく沈黙が続く。
母さんの声は少し震えていた。
「寿美子の絵を描きあげた、一ヵ月後だったみたい」
「…ひとつ、聞いてもいい?」
「何?」
「父さんの、名前を聞きたいんだけど」
扉が開いて、パイプオルガンが響く。母さんは何かを言ったけれど、聞き取れなかった。結局、私は父さんの名前を知らないで、名前が変わる。
END
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後半、父さんがでてくるらへんから某青春小説とかぶって仕方ないです。
いや、私が書いたんだけども。あ、その小説は違う作家さんですけれど。
ちなみに名前が変わる、っていうのは苗字が変わるってことで(言い訳
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