あかいめ 午前三時、携帯電話の呼び出し音で目が覚めた。隣で眠っていた妻も眠たげに声をあげる。 「何?こんな時間に仕事?」 「いや、寝ていてくれすまん」 サイドボードに置いた携帯をとってそそくさと部屋を出た。ディスプレイを開かずともその着信音だけでわかる。社長だ。廊下にあるクロゼットからワイシャツとスーツのジャケットを引っ張り出しながら応答する。 「松居です」 『…私だ。こんな時間にすまないがうちに来てくれないか』 「マンションでよろしいのですか」 『いや、別宅のほうだ』 「急いでいきます」 嫌な胸騒ぎと、冷静な電子音だけが残る。スラックスもはいたがネクタイまでをするのがもどかしい。暗い玄関に腰を下ろして革靴に足をいれるとぱっと電気がついた。後ろに妻がたっているのだろう。 「仕事なのね」 「帰りはわからない。悪い」 「せっかく一週間の海外出張から帰ってきたと思ったのに」 「できるだけ早く帰るよ」 「わかってるわ」 彼女の顔を見ることはせずに、家を出た。マンションのエレベータに乗り込みながら、もう一人の秘書の飯岡に電話をする。彼も当然寝ていたわけだが、社長の様子を伝えるとすぐに眠気が声から消えた。すぐに行く、といって電話を切る。 いつもは冷静に、まるでマネキンのようにも思える社長だったが、さっきの電話は変に声が上ずっていた。何かきっとあったに違いない。しかも別宅だという。動揺のためか震える右手を左手で押さえながら、エンジンにキーを差込み回転させる。 アクセルを踏み込みながら、社長に会った日を思い出していた。 透けるような肌と掘りの深い顔だった。髪の毛も茶色というよりは赤茶色で、おそらく人工で染めたのではでないツヤがあった。やわらかそうな髪の毛をなんとなく七三にわけているその顔は、まだあどけないようにも見えた。 「松居、私の息子のレオンだ。レオン、彼が秘書課の松居だ」 前社長は、私と飯岡を社長室に呼んで、レオンさんに引き合わせた。自分も飯岡も、身長も低くはなくどちらかといえば高いほうだったのだが、彼は私たちよりも五センチほど背が高かった。 「始めまして、大渕レオンです。今日から社長の仕事見習いとしてしばらくお世話になります」 「世襲制の会社もどうかとは思うが、親からの目を差し引いてもレオンは仕事ができるのでね。しばらくここに置こうと思っている。ついては秘書課、特に松居と飯岡、お前たちがこいつと年も近いこともあるから、色々と教えてやってほしい。私の息子だからといって遠慮はいらん」 レオンさんは薄く微笑んで、丁寧にお辞儀をした。 それから五年ほどして前社長はなくなり、レオンさんは社長の座についた。 はじめ、世襲制に反対する勢力も多かったが、彼の仕事ぶりを見て何かをうるさく言うものはいなくなった。 レオンさんが結婚したのは、社長になってから三年ほど経ってからだった。会社がかなり大規模になって、レオンさんの名前が経済界の有名な雑誌やテレビに出るようになってしばらくのことだ。それは不意のことだった。私も飯岡も、事後報告をうけたのみで夫人の顔は知らない。夫人、というと前社長の奥様しか思いつかない。ロシア人で、ずいぶんと美人な人だった。レオンさんは前社長の奥様に似ている。 「私の妻?」 飯岡が、興味もこめて聞いた問いに、社長は乾いた声で笑った。 「つまらない女だよ」 「そんな。恐縮なさらないでも」 「いや、つまらない女さ。私の母は自分でいうのもなんだがロシア人だったからか、美しかった。母にくらべればたいていの女性はつまらなくも感じるというものかな。」 彼は、ずいぶんとゆがんだ笑い方をするのだと、そのときに気づいた。マネキンが無理をして笑っているように。 とはいうものの、そんな彼も自分の息子はかわいかったと見える。結婚して約一年後に子どもが生まれたと、薄い笑顔で報告をうけ、またその三年後には、その子どもが社長室にくるようになった。彼が社長になってから、社長室はフロアから見えるようにとガラス張りになっており、その中を小さな男児が駆け回る。女子社員はもちろん、男子社員もやわらかな目でそれを見つめていた。 「まつい、遊んで。パパは忙しいから」 社長室にぼっちゃんがいるとき、そこに行くと必ずそう言って足にくっついてきた。ぼっちゃんは、やはり社長と同じ赤茶色のきれいな髪の毛をしていて、瞳の色ははしばみ色をしている。少し三白眼のようで、目つきは悪かったが甘えてくる声はずいぶんとかわいかった。 「雄生、お前はここに遊びに来てるんじゃない。パパが忙しいからって松居と遊んでいいわけじゃないだろう」 「でも」 いいかけて、ぼっちゃんはそれ以上わがままを言うようなことはしなかった。応接用のソファまでその小さな足を動かして、ちょこんと座る。 「松居」 取引先との食事が終わったある夜、車を社長宅まで走らせていたときだった。いつになく冷たい声で、社長はそう私を呼んだ。 「今日は、マンションでいい」 「しかしぼっちゃんの誕生日だと―」 「この時間だ、寝ているだろう。それにもう別宅に帰る必要もない」 社長は、会社近くのマンションを借りていて仕事が忙しいときにはそこに寝泊りしていた。夫人とぼっちゃんが暮らす家は別にあった。その日はぼっちゃんの誕生日で、社長はプレゼントを持って車に乗っていた。 「それは、どういうことですか」 「離婚をする、ということだ。珍しく松居にしては勘がはたらかないか。結局妻は、最後までつまらない女だったということだ」 社長は口を閉じた。方向を変えて、マンションへと向かう。 離婚した、とは言うもののぼっちゃんは小学生のころまでよく会社に出入りしていた。私は社長について外回りの仕事が多い分、ぼっちゃんの相手をするのは中の仕事の多い飯岡だった。彼は子煩悩で、父親代わりにもなっているようだった。日々は緩やかにすぎていく。中学入学する頃になって、ぼっちゃんはこなくなったが、それでも日々は緩やかにすぎていたはずだった。 もう長い間、聞いてもいなかった「別宅」へは、飯岡も同時についていた。顔を見合わせただけで、ただならぬ事態を感じていて言葉は出てこなかった。 おそらくドアベルを鳴らしても無意味だろうと、ゆっくりドアノブに手をかけた。 「社長、いらっしゃいますか」 「社長、どこですか」 家の中は真っ暗で、物音一つしない。私も飯岡も足が前に出ない。不意に電気がつき、先ほどの自分の家とのデジャヴを感じる。急に明るくなった廊下に社長が立っていた。血まみれだ。 「・・・・!」 「ああ、松居、飯岡、すまないこんな時間に。少々厄介なことがおこってね」 そういう彼の顔は、かすかに紅潮していて興奮の跡が残っている。声は電話と違い、いつもの冷たい声だった。私も飯岡も相変わらず一言も発することはできず、しかし社長はそれを楽しんでいるようで廊下を引き返した。無言でついていく。 おそらくリビングルームであろう、二十畳はある部屋にいきつく。これが血の海というのか、鳥肌が引かない。部屋の中央には誰か若い男が膝立ちになって必死に腰を動かしていた。赤茶色の髪がふわふわとゆれている。 「ぼ、っちゃん」 振り向いた顔は、私たちが初めて会ったレオンさんを若くしたような顔だった。 「意外にも早く着いたんだ」 「ぼっちゃん、何を―」 「セックス」 隣で飯岡が口を押さえながらしゃがみこんだ。えずいている。びちゃびちゃと液体が床にあたって飛び散る音がした。 ぼっちゃんが自分のそれを挿入していたのは、若くも見える女性で、それは彼女が生きていればおそらく普通のセックスだったはずだ。しかしそうではない。彼女はカッと目を見開き、血まみれの中でぼっちゃんのそれをゆるゆると受け入れていた。両腕はない。 私たちからも、ぼっちゃんからも離れていた社長は、やはり薄く、顔をゆがめて笑ったのだった。その手にはおそらく彼女のものであろう両腕が握られていた。 「さすがの私も、妻の対処にはどうしていいのかわからないんだ。つまらない女だ」 それから数年の間に私は離婚し、社長が借りているマンションの部屋の隣で暮らすようになった。私や飯岡が奮闘したおかげかはわからないが、社長や会社に警察がくることは一度もなかった。ぼっちゃんはと言えば、あの晩からぱたりと姿を消していた。社長も特には何も言わなかった。 ただ、毎月以前と変わらず夫人の口座に金を振り込むようにいわれていた。おそらくぼっちゃんが使っているのだろう。口座の残高も毎月減っていた。 じっとりと蒸した晩、マンションまでの車の中で社長は言った。 「男を一人、買おうかと思うよ」 いつもいつも不意のことで、好い加減に驚くこともなかった。ただ社長を見つめるだけだ。やはりその顔は、いつもと同じ薄い笑みを浮かべている。 取引先の玩具メーカーの社長に、会員制のクラブを教えられたのだと。ちょうど溜まっていたところだし、男というのもまた目新しくていいだろう、とマネキンのように整った顔で言う。私は頷くこともせず、ただ黙っていた。何も考えないで、社長の言うことを受け入れること。それがおそらく得策なのだ。 つい二ヶ月ほど前に、自分には今、生後何ヶ月の息子がいるのだといわれていて、麻痺していたのもあるかもしれない。社長がいないところで少し愚痴を言う飯岡でさえ、新たな息子の出現を聞いても、もう顔の筋肉が動くことはなかった。 「それと、これは暇つぶし程度でいいんだが」 マンションのエントランス前で止まると、社長は下りずにまだ言葉を続ける。 「雄生の居所を調べてほしい。すぐに見つかるだろう。何もあいつも、私から逃げているわけではないだろうから。会社のゆくすえも、そろそろ心配だ」 「社長、まだお若いのに」 「暇つぶし程度でいい」 社長はドアをあけて、下りていった。私は駐車場に向かう。 ふと、あの血の海を思い出す。胃がひねられるように軋んだ。あのとき振り向いたぼっちゃんの顔は、目が赤く燃えているようで、しかしそれは社長と同じ目だった。狂気。その言葉がいつまでも頭の中で反芻され続ける。 to be continued |