あの日
はっと目が覚めてすぐ、ホヅミの顔が視界にはいる。彼の手が俺の頬に触れていた。ひんやりとしたその感触が素直に気持ちがいい。じっと見つめていると、ホヅミは俺が目覚めたことを確認したのか、立ち上がって水をコップ一杯持ってきた。
「ずっとうなされてた。俺が誰だかわかるか?」
「……バカにすんな」
かすれた声はばばあみたいで、けど咽喉の皮膚がくっついてしまったみたいに話しにくい。手を伸ばして水をうけとる。ゆっくり飲めと彼は忠告をしたが、いち早くこの不快感をとりのぞきたくて一気に飲んだ。案の定むせる。吐いてしまうのではないかと思うぐらい気持ち悪くて、ベッドの上で起こしていた上半身をすぐに横たえた。コップを押し付けると、ホヅミは文句も言わず受け取る。
胃がぐるぐる回っているみたいに、気持ち悪い。イナがいなくなったときとは違う、気持ち悪さ。死ぬのだと思って、そう覚悟して、でも生きているという矛盾みたいなものや、無駄になった覚悟が体内で暴れているみたいだ。
ホヅミがまた顔を近づけてくる。彼の手が、今度は俺の額に触れた。やはり冷たくて気持ちがいい。
「熱はないけど顔色は悪いな。不摂生がたたってんだろ」
「…お前、今日学校は?」
「今日は日曜だ。休日ぐらい休ませろ」
「平日だって働いてるわけじゃねえだろ」
「そういえば」
ホヅミはコップをテーブルに置くと、ベッドにもたれた。彼のきれいに渦巻くつむじが見える。
「イナはバイト行った」
「……」
ぎゅう、とその名前に反応したかのように俺の胃が縮む。生唾が口の中にあふれる。
殺される、と本当に思ったのだ。便器の水の中に顔をつっこまれ、ケツにあいつのちんこをつっこまれながら、殺されると。自分があのとき何を考えていたのかよく覚えてない。だが、俺は、まだガキだったときに同じように覚悟をしたことがある。そうしてやはり、生きていた。
「昨日の、深夜だよ、イナから電話もらって。お前が気絶したからって。そしたらお前ぐっしょり濡れて真っ裸で、白目むいてたんだ。とうとうイナが人を殺したって、今までそういうのがなかったのが不思議なぐらいだったけど、したらお前まだ、生きてるから」
ホヅミがゆっくりと語るのを聞いていた。胃の痛みは少しずつ収まって、ゆっくりと顔だけ動かすと窓から昼間の光が差し込んでいた。遮光カーテンがいつのまにか、かかっていてそこまでまぶしくはなかった。エアコンがゆっくりと動いている。設定温度が低いのか、それに到達したからなのか、いつもならごうごうとうるさいほどに動くのに、ずいぶんと静かだった。いつもはくすんだ部屋にしか見えないのに、今日は白くて清潔な部屋に見える。
「ホヅミ、お前、掃除した?」
「あ?いや。俺が来たときはもうこんなんだったけど」
ホヅミが振り向いたが、特に表情はなかった。遮光カーテンで勢いをそがれた陽光が、その横顔を照らしている。やわらかい、クリーム色の光だ。
いや、違うな。
俺は何かと重ね合わせてる。
こぽこぽ、と水槽に酸素を送り込む機械の音がしていた気がした。ああ、俺はやっぱり水に沈んで死んだんだ。水槽の中みたいな狭くてにごって汚い水の中で、俺は。ゆっくり目を開くとそこに広がっていたのはにごった水ではなく、クリーム色の淡い光、そして同じ色の天井、壁紙。俺はベッドに寝かされている。頭はぼんやりとしていて、だがそこは確実に水槽の中ではないことはわかった。一人で寝かされているには大きすぎるような部屋で、なぜだか無性に寂しくて涙があふれてきた。
がらがら、と俺の寝ている左側から音がして、白い制服を着た女が入ってきた。扉があったんだ。泣きながら彼女を見る。驚いた顔をして、女はすぐに微笑むと俺の額に手を当てた。ぬるい。かすかに薬剤の臭いがして、少しずつここは病院でこの女が看護師なのだということがわかってきた。 彼女は温度と血圧をはかり、点滴の様子を確認するとやはり微笑みながら出て行った。
そのしばらく後、今度は白衣をきた男とさっきの看護師がやってきた。男は時代遅れのレンズの大きな眼鏡をしていて白髪の混じった髪の毛をきれいに七三にわけていた。眼鏡の奥の瞳は優しく微笑んでいる。
「目が覚めたかい?自分の名前、いえるかい?」
「…大谷…千尋」
「うん、そうだね、千尋くん。ここがどこだかわかる?」
「…びょういん?」
「うん、君はしっかりしている。大丈夫そうだね。どこか痛いところや変なところは?」
「…ない」
「うん。もしおかしなことが少しでもあったら、枕元のこのボタンをおすんだよ」
「うん」
「僕はソノダといいます。千尋くんが元気になるまで、僕と一緒にがんばろうね」
やわらかい声を聞いていたら、やはりまた眠くなってしまいまぶたが重くなった。ソノダ先生がその後何かを言ったか覚えていない。
ふと気づくと、俺は薄汚い部屋にうつぶせに転がっていた。ずきずきと横腹が痛む。そっと手で触れてみると、右のウェストあたりが驚くほど熱をもっていた。自分の手が冷えていたのかはわからないが、その温度差がちょうどよく気持ちがよい。首筋がたまにぴくぴくと痙攣する。たばこを押し付けられた跡がたまに痛む。じくじく、する。それにしても横腹が痛い。口をあけているつもりはなかったが、勝手にうめき声がもれた。痛い。痛い。痛い。頭の中でぐるぐる繰り返していると、だんだん「痛い」って言葉が言葉じゃないような気がして、俺は何を言ってるんだろうって、おかしくなってうめき声と笑いが混ざった。
「何笑ってんだよ、気持ち悪い」
上から声が降ってくる。俺の目の前に黒いタイツをはいた二本の足。あ、まずいと思ったが動けない。二本のうち一本が地面を離れた、と思った瞬間に鎖骨の辺りを蹴り上げられる。ぐふ、と口から息がもれて―それが最後の呼吸だったみたいに酸素が吸えない―仰向けに転がった。横腹の痛みと胸の痛みが脳みそを一杯にして、頭がぐるぐる、本当に、ぐるぐるする。
ああ、なんでいっそ死ねないのだろう。
ああ、なんでいっそ殺してくれないのだろう。
しばらく二本の足はこっちには向かってこない。痛みがゆっくりと、本当にゆっくりとだがひいていく。息ができる。だがきれいさっぱりとなくならないことも知っている。腹の奥底がきゅうと、縮こまるような、思い出すと息が荒くなってまた呼吸が難しくなるような、苦しさをはらんでる。
「あんたさ、なんで生きてんのかな?」
二本の足が縮まって、女がしゃがんでこっちを見てる。化粧が濃い。これから出かけるのか。あう、と間抜けな声しか出なかった。女の眉間にぎゅっとしわが寄る。
「死んでみる?」
理解する前に、女が俺の両腕をひっぱって部屋の隅にあった水槽の前に引きずる。部屋はごちゃごちゃとしていて、いつたべたかわからないカップ麺の容器、コップ、灰皿、マンガ、服、そんなものが俺の体にぶつかってどこかにはじけていく。もう何も感じない。
水槽の前に投げ出される。またうつぶせに転がった。いつから放置してあったのか、中の水は緑色ににごっている。酸素を送る機械だけが正常に、こぽこぽと動いている。たぶんこの部屋で唯一正常なものだろう。こぽこぽ、送ってるくせに、水槽は緑色だ。正常なものなんか、役に立ちはしない。
女はいつのまにか後ろからまたがっており、俺の後頭部をがしりと掴んだ。爪が食い込む感じがする。
「ちーひろ。よーいドンだよ。よーい、ドン」
ごぶ、と俺が言ったのか水につっこまれたときの音なのかわけがわからないまま、俺はもがいた。息ができない。気持ちが悪い。くさい。汚い。死ぬ、死ぬのか。嬉しいのか。悔しいのか。わからない。苦しい。ただ、苦しい。痛い痛い痛い。
気が遠くなり、ああ死ぬ、と思うと水から顔が離される。息ができるが、なのに、できない。苦しい。むせて、むせて、内臓が全て出てしまうのではないかと思うほどだ。背後にいる女はまだ俺の頭を掴んでいる。何を思っているのかはわからない。
「はい、もう一回ねー」
緑色の液体はどんよりとにごっていて、ねばっこくて、皮膚に入り込んで毛穴から体内に入り込んでくるみたいだ。
「あぁうああ、ああ、おか。あ、おかあぁさん、ん、んん、ゆる、ゆるしてぇあああ…」
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い」
「おかあ、あさぁん、あ、う、あ、」
そして、暗転。
「千尋くん、千尋くん」
揺り起こされて、今のは夢の中で思い返していたのだと気づいた。ふ、と息を吐く。昼間、ソノダ先生とやってきた看護師が心配そうにこちらをのぞきこんできた。部屋は暗く、
枕元の妙に明るいスタンドだけが光源になっている。汗をびっしょりかいていて、気持ち悪さで気づいたが体中にガーゼや包帯が巻いてある。それらが湿ってからだに入りついて気持ちが悪いのだ。
「大丈夫よ。大丈夫。もう、何も怖いことなんかないのよ」
看護師は呪文みたいに何度も何度もその言葉を繰り返し、俺の包帯と寝巻きを取り替えると布団をかけなおした。目を瞑る。その後は何の夢も見ずに朝を迎えた。
がちゃん、とコップの割れる音で目が覚めた。今の俺は、いつの俺だ?ガキの頃の俺か?母親に殺されかけた俺か?病院で保護されていたときの俺か?
部屋が少し暗くなっており、日が暮れ始めたのだとわかる。ベッドの上で身をおこすと、キッチンにイナが立っているのが見えた。自分が落としたコップをじっと見つめている。ホヅミが来たときは気づかなかったが、台所にあるテーブルの上もきれいさっぱり何も乗っていない。木目の加工を施された表面がにぶく光っていた。ああ、今の俺は今の俺か。夢が回想なんて、バカみたいだ。死ねばいい。
イナが俺の視線に気づいたのか、振り向く。
はしばみ色の目が、赤く光っているように見えた。
「目、覚めたか」
「…」
「千尋」
「…その名前で呼ぶな」
「俺の親父を刺したときに、名前を捨てたか?いやもっと違うか。自分の母親に殺されかけたときにか?」
昨日、散々暴れたからか、俺の体内は静かなものだった。部屋も静かだ。エアコンがいつの間にか切れている。いつもつけっぱなしになっているはずのテレビもついていない。
「笑えるよな、千尋、お前さ俺より年上なんだってよ」
「死ね」
「いつか、な」
エアコンがついていないのに、この部屋はひんやりと寒い。真っ裸でいるのもきつい。ふと、俺は自分の体を見た。母親から受けた傷はきれいに治り、跡は残ってない。ただ思い出したように首筋がひくひくと痙攣した。そこにも何も傷痕はないが。イナからも、傷つけられたことは一度もない。
だが痛みは奥底にひっそりと息づいていて昨日のことのように、いつの痛みだってありありと思い出すことができる。痛みはなくならない。
母親によって水槽に沈められたときの痛みや苦しみ、イナによって便器に沈められたときの痛みや苦しみ、それらは俺の中にじっとりと、あの緑色の水みたいに入り込んでいる。
母親の目も、大渕さんの目も、そして今目の前にいるイナの目も、みな同じ色をしていた。
真っ赤な、目だ。
そして俺も、きっと、真っ赤な目をしている。
求め、拒み、蔑み、痛めつけられ、傷つけ、苦しみ、喜び、絶望し、死に、そして
生きる目。
イナは割れたコップを片付けると、ベッドのそばにきて昼間のホヅミのようにもたれた。だがホヅミのようにはつむじは見えない。暗くなってしまった部屋の中でも、彼の銀髪は白く浮いていて、その生え際からは赤茶色の髪の毛が伸びてきているのが見て取れた。イナはタバコに火をつける。もちろん灰皿はそばにない。というか、どこにいってしまったのか俺は知らない。
「お前が、片付けたのか、部屋」
イナは振り向き、いつものように顔をゆがめた。
「いらねえもんばっかだったからな」
「灰皿は」
「捨てた。いるのか?あんなもん」
「灰。落ちてんだろ」
長くなった灰がぱらぱらと落ちた。イナは振り向いて俺をじっと見る。俺もじっと見返す。不意にイナの長い腕がこっちに伸びてきて、俺の頬をひとなでする。イナの指は冷たい。だが、確かに温度を感じた。俺が上半身を起こすことを察していたのだろうか、彼は動いてベッドに腰掛けると同時に俺のことを抱きしめた。灰が背中にさらさらとあたって砕けていくのがわかる。イナは俺の背中に回した手の爪をたてる。じんわりめり込む。このままこいつに心臓をえぐられていくかもしれないと思ったが、それもいいかもしれない。力が自然と抜ける。
かすかに血の臭いがした気がした。
なんとなく、いつかイナの財布に入っていた歯を思い出す。
to be continued
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