|
北風と太陽
夜二時、喉が渇いてベッドを出た。隣の部屋で寝ている父さんと母さんを起こさないようにしてゆっくり廊下を歩く。冷えたフローリングが火照った足の裏にちょうどいい。ひたひたと歩いて幽霊みたいだなと思い、ああ、そういえばうちには本当に幽霊がいた、と思って、弟の部屋のドアを見つめた―というよりも睨んだといったほうが正しいけれど。
ひとつ違いの弟―桜芽は引きこもりで、昼夜が逆転した生活をしている。今年でもう中学三年生。中一の五月にはもう学校には行かなくなって、今は中三の二月だ。随分長い間、桜芽の姿さえあたしは見ていない。考えるだけでなんだか億劫なのだ。
人気の感じられないはずのリビングルームに、かすかに声が響いている。あたしはなんとなくその正体を知りながらも、物音をたてないように冷蔵庫をあけてミネラルウォーターを取り出した。少し体をそらすと、真っ暗な中に青白くテレビがついている。その前に誰か座っている。青白い光を受けているのに、ヤツの姿は影絵のように浮いて見える。久しぶりに桜芽を見たからか、あたしの心臓はドキドキと速くなる。気持ち悪い。
桜芽がゆっくりと振り向く。表情は、黒く垂れ下がった前髪の所為でよくわからない。
「歩野?」
予想以上の太い声で名前を呼ばれて、体中に鳥肌が立った。前にしゃべったのはいつだったろう、こんなに声が太く、いがついていただろうか。どんな風に会話をしていたんだろう。思い出せない。
「こんな遅くにどうしたの?」
それはこっちの台詞だ。こんな夜中にテレビの前に座って。
「テスト週間か何か?」
桜芽がそう言ってすぐに、テレビから歓声が響いた。こんな時間だ、テレビショッピングらしい。シチューを煮ている鍋が大きく映し出されている。あたしは乾いた唇をぺろりと舐めて、口を開いた。
「明日から、テストなの。あんたはこんな時間に何してるの?」
「最近、起きると十二時とかで。もうその頃になるとみんな寝てるだろ?歩野は起きてるにしても部屋にいるし。」
彼はゆっくりと体の向きをこちらに変えた。あたしも桜芽の後ろにあったソファに腰掛けた。
「だけど俺は部屋にいても何もすることないし、お腹すくからいっつもご飯食べに二階から下りてくるんだ。母さんがご飯作っておいてくれているから。」
別にそんな話に興味はなく、あたしは静かに話す、本当は中学三年生の弟の姿を上から下までじっくりと眺めた。好きに伸びている黒い髪の毛、それの所為でよくわからない表情。骨ばった体、腕、手。窮屈そうに胡坐に折り曲げられた、足。いつの間にか桜芽はちゃんと“男”として成長していた。何か欠けているようにも見えるけれど。いやきっと何か欠けているのだろう。
桜芽はあごにある、先端が白くなったにきびをそわそわと指でなぞった。目が泳いでいるのがわかる。何を言おうか迷うとき、桜芽はいつも目が泳ぐ。小さな頃からの癖だった。それを見て初めて、目の前にいる彼が弟なんだとやっと自覚した。
「前にしゃべったとき、歩野怒ってたよな。」
「いつの話?」
「半年ぐらい前かな。よく覚えていないんだ。」
半年もろくにしゃべっていなかったのだろうか。それすら覚えていない。怒っていたのか、あたしは。心当たりなら、ないわけじゃない。
「俺のことで怒ってた。」
「そうだろうね。」
テレビからまた歓声がする。今度はセラミック製の包丁らしい。随分ふけた感じの男性がなれた手つきできゅうりを小口切りにしていく。そのうち電話帳も切り始めるだろう。桜芽はテレビが気になるらしく、体を半分回転させた。
あたしはなんとなくしゃべりたくなくて、だけど立ち上がる気にもなれず、冷えたミネラルウォーターを無理に流し込んだ。表面についたしずくがパタパタ床に落ちる。飲みたかったはずなのに、大しておいしくない。
半年前―なんとなく思い出した。高校にはいって初めて彼氏ができた夏休みだった。初めてのデートの日。彼氏に言われたのだ。
「歩野の弟ってひきこもりなんだってね。」
どうやら必死で隠してきた中学時代に漏れた話が、彼に伝わったらしい。中学時代に桜芽のことでどれだけ回りから、からかわれてきたか。苦くて痛い思い出がよみがえってくるし、彼氏はそのことをあれこれと聞きたがるし、散々なデートだった。
なんであたしがいやな思いをしなければいけない?ひきこもっているのは桜芽なのに。悪いのは桜芽なのに。あたしには何の関係もないのに。
その日、家に帰ると珍しくリビングにいた桜芽を、あたしは何の言葉もなく引っ叩いたのだ。ずっと姉弟をしていて、初めてだった。桜芽を叩いたのは。
それからじゃないだろうか、徐々に桜芽の生活時間がズレて今のようになってしまったのは。手が、震える。
「桜芽、あんたって、」
桜芽はゆっくりとこちらを向いた。前髪の間から二つの大きな瞳がきょろきょろ動く。
「なんでそんな風になっちゃったの?」
「・・・・・・・・・・・・」
沈黙。あたしは待つ。
桜芽の目はまだせわしなく泳いでいて、見ているこっちが酔ってしまいそうになるけれど、あたしは待つ。
突然、軽快な音楽が鳴り始めて、テレビショッピングの終わりを告げた。にこやかなおばさんたちが映って手を振っている。桜芽が口を開いた。
「六年のときにクラスでいじめられてた友達がいたんだ。俺がいじめられてるわけじゃない。二学期ぐらいからすごく酷くなった。担任もいじめてた。無視したりずっと立たせたりしていた。みんな知ってた。学校中が知ってた。」
桜芽はゆっくりこっちに手を伸ばしてきて、あたしはそっとペットボトルを渡した。彼はおいしそうに水を飲む。
「中学に入ってもずっといじめられていて、四月に、彼は自殺をした。でも発表されなかった。学校側に消された。それで俺は、学校に行けなくなった。」
ああ、覚えている。まだ桜芽が入学したての頃にあたしたちの学年でも有名だったんだ。自殺した彼のこと。良い子でも悪い子でもない。普通の子なのに、いじめられているって。
「生きていけないってわかったんだ、あんなところで。嘘も真実もない、なのにあんな混沌とした場所で。自分はそこまで繊細じゃないはずだったのに、彼に感化されたのかしらないけど、もう、生きていけないと思ったんだ。」
ああ、この子は。不器用に大きくなった弟は。あたしよりも何年も前に世界の嘘を見破っていたっていうの。急に足先から寒さが体中に走ったような感覚に襲われた。体中が総毛立つ。
「北風と太陽の話、あるだろ。学校は太陽だった。彼を照らして涸らした。すべてをはぎとっていった。」
骨ばって、長い指に掴まれたペットボトルがそっと渡される。あたしは自然とその手を握っていた。こんなに寒い夜なのに、彼の手のひらは汗ばんでいる。
勝手に涙がこぼれた。さっき、ペットボトルから床に落ちたしずくと、あたしの涙が連なる。
「なんで歩野が泣くんだよ。」
「わかんない。けど、北風だってあるんだよ。」
桜芽は戸惑ったようにあたしを見つめている。けれど手は離さないでいる。きゅっと力をこめた。
「北風を信じればいいんだよ。寒かったらぎゅっと着て、それを守ればいいの。桜芽、」
「何?」
「ごめん、ごめんね。今までごめんね―」
涙が止まらなかった。止まってくれなかった。ぼろぼろぼろぼろ、自分じゃない誰かが泣いているみたいに。
「俺は、」
また新しく始まったテレビショッピングを眺めて、桜芽がつぶやく。
「コレが好きだよ。嘘もないのに真実でもないだろう。」
あたしは桜芽の手をつかんだまま床に、桜芽の隣にぺたりと座った。冷たい。彼はずっと一人でこの冷たさの上にいたのだろうか。そうだとしたら―悲しすぎる。そうしてあたしと誰かの涙は止まらない。
「そのうちここを出ていくよ。父さんと母さんに迷惑かけすぎちゃったから。」
あたしは必死に頷いた。もう、言うべきことは見当たらなかったし何もないように思えた。ただ、何もわからない彼の三年を知りたくて、この手を離したくはない。
END
***
書きたいことがこれっぽっちもかけない。
|