やまぶき色のそれ



胃がキリキリと痛む気がして仕方なかった。しんしんと冷えるフローリングに座って前かがみになり、足の指にマニキュアを塗る。この場合はペディキュアかな、とか思ってみたり。色はやまぶき色にした。特に理由はなく、ただ、赤だと少し派手すぎるし、黒だとやる気がうせる気がして、だからってやまぶき色ってどうなんだろう、と思いつつもキツイ体勢を維持して私は塗り続ける。
きっと胃が痛いのも、この体勢が悪いのかもしれないと、ペディキュアを塗り終えできるだけ指が触れ合わないように、つま先をそりあげてゆっくりと立ち上がる。あ、大丈夫そう。

(しゅう)

いつのまにかやってきたのか、ドアの前で母が立っているらしく、すりガラスの向こうに彼女の影がゆらゆらと動いていた。何を思ってか母は、いつも足音をしのばせてやってくる。私は、キツイ体勢からやはりキツイ体勢で、足のぶるぶるさせながら声もぶるぶるさせてたずねた。

「何?」
愛灯(まなと)くん、きてるけど」
「どうせご飯食べてるんでしょう。そういえばうちはまだなの?」
「もう食べたの。あんたの分、なくなるけど」
「おい」

あわてて部屋から飛び出して、リビングに向かう。そこには、我が家同然、いやむしろ私がここにいるのを間違えたのではと思わせるほど、ずっしりと構えてソファに座っている愛灯の茶色い頭が見えた。対照的に、ずっしりと構えているべき家長である父は、こたつに入ってちんまりと縮こまっていた。ボスザルと子ザル、そんな風に見えて、私はボスザルの頭を後ろから思い切り引っぱたいてやった。

「うげっ」
「あんた、ご飯食べたなら早く帰りなさいよ」

不意をつかれたマナは、最初は憤慨したみたいにむっと口を尖らせていたが振り向いて私の顔をじっとみたあと、たとえば小学生が友達の恋を茶化すみたいに、にんまりと笑った。私は、この顔が一番大嫌いだ。

「嵩、お前、太ったろ」
「早く帰れ!」

マナはよけいにんまりしてる。

「いくらおばさんの料理がうまいからって、自重しなさい、自重を」
「まあ、愛灯くんいいこと言うわねえ」
「うん、将来有望だな」

マナが立ち上がり、玄関へ移動すると父も母も移動し、なぜか私もひっぱられていく。もちろん足の指はあげたまま。
藤沢家の大移動は事なきを得、その先導者たるマナも私たち三人に見守られて、コンバースのハイカットをゆっくりと丁寧に履く。少し、泥だらけのハイカットが、本当に少しうらやましく思う。マナが丁寧に、愛しく扱うのはあれだけだ。
ぼうっとして立っていると、母に押されて、立ち上がった彼の隣に立つ格好になった。

「送ってきなさい」
「私が?こいつを?」
「色男が夜道を一人で歩いてたら危ないでしょうに」

反論する前に、強引に押し出された。



「もう、冷えるな」

実際、旧暦じゃ冬だもんな、とマナはつぶやいた。
彼が住むのは私の家から見える徒歩にして約三分のアパート。ここに見送りもなにもないが、たまにこうして私は彼を家まで送っていく。母はいつも同じ理由。そろそろ、違う理由が思い浮かばないのかな、などとマナと話す。思うに、父も母も、マナを気に入っている、というかもはやわが子同然なので私とこれをくっつけようとしているのかもしれないが、まっぴらゴメンだと彼が言うまえに私が言っておこう。ここは譲れない。
大体、マナのような浮気性を固めて化石にしたようなやつを、「色男」として受け入れる心的余裕があるなら私の正式な彼氏である滉太(こうた)を受け入れてほしい。滉太はマナよりも百万倍も誠実だ。というより、誠実さのレベルが底辺以下のマナと比べることが申し訳なくて泣ける、というのは大げさか。


「ちょっと待ってな」

アパートの前につくと、マナは一度部屋に引っ込み、出てきたときにはやまぶき色と橙色を混ぜたような、派手なパーカを持ってきた。

「着てけよ。女に風邪をひかせたとかいう話がでたら、女たらしの名がすたる」
「そういうところが、一番うざい」
「どうも」
「ほめてないから」

それでも彼はニコリと笑う。さっきみたいな、にんまりした笑いではなくて、本当に無垢な笑顔。そう見えるだけかもしれないが。マナに恋している、マナの第一彼女、第二彼女以下略たちは、こんな笑顔ばっかり都合よくも見られるのだろうか。それなら、いくら自分だけを彼女にしてくれなくともまあいっか、と諦念を抱くこともわからなくもない。でも実際、そういう心優しい念を持ったのは、マナの彼女の中にいるのか定かではないけれども。そんな思いを持ったのもつかの間、マナはまたにんまりと笑った。

「部屋、よってく?」
「犯されるからヤダ」

走って逃げる。マナが笑いながらおやすみ、といったのでなんとなく頬を緩ませて、背中を向けたまま手を振った。

家に帰ってみると、やまぶき色のぺディキュアはよれることなく、ピン、と私の爪にくっついていた。自分が着ている、マナのパーカの色と同じだ。また、少し胃が痛んだが特に気にならない、蚊に刺されたようなもんだ、と思った。



「ん、じゃあまた後でね」

しまった、と激しく後悔している私をよそに、屋上の扉を開けて彼女は降りてきて、中腹あたりで立ち止まった。なぜ、屋上につながる階段が一つしかないのか、心底腹立たしかった。しかし、今最も腹立たしい思いをしているのは彼女に違いない。そこにとまったままの彼女は、逆光の生で表情は見えないが、じっと私を見据えている。もちろん、目線がどこを向いているのかなんてわからないが、私が動けないところをみると、私は見つめられている。
開け放たれた屋上の扉から、びっくりするほど冷たい風が吹き、彼女の髪を散らし、私の顔をこわばらせる。
何か言わなければ、と思ってうまく動かないうちをめいっぱい広げると同時に、彼女はなんの苦もなく言葉を発した。

「何か、愛灯に用なの?」

さっきの「ん、じゃあ」の猫なで声はどこにいったんだお前は、コナンの蝶ネクタイでもつかってるのか、とあきれたがそんなことを言ったら、私はもう殺される、と変な確信があった。

「ほら、うちってマナと家近いし、母さんとマナが仲良しだから。私の用事っていうよりも、母さんからの言伝みたいな、そういうもんだから」

できるだけ、彼女の神経を逆撫でしないよう、ゆっくりと話した。しかし、彼女は、もし体毛があったのならそれを目いっぱい逆立たせているような、そういう雰囲気を発している。ああ、猫なで声じゃなく、彼女は猫なのかも、などとくだらないことを思う。こんなことを考えてじゃないと、こういう種類の人間とははなすことができない。ようするに、怖い。

「ていうかさ、シュウちゃんはコータくんいるじゃん。自分のママをつかってマナまで狙うとか、ショージキメーワクなんだけど」

彼女特有なのか、女子高生一般に言えるのか無駄に目上からの物言いで、ねちっこくわざわざ災いを招くようなそんな話し方。
ショージキメーワク。
口の中で繰り返した。四字熟語でありそう、などと思ったが、やっぱり、言うことはできないが。
気に障る、というよりも、どうしてかまた胃が痛くなってきた。どうにか、このボス級の敵キャラを追い払えないものか、どうか。そんなことを考えつつしどろもどろしていると、彼女はふん、と鼻で笑ったのか口で言ったのかよくわからなかったが冷たい視線で私を射抜くのをやめて、憤然と私の横を通り抜けて行った。


「ああ、もうリエとは終わったな」

屋上に上がりマナを後ろから蹴り飛ばすと、マナは転がりながら彼女の名前を口にした。
階段での会話が丸聞こえで、大体彼女の性格の悪さは知ってたけど、とつけたした彼は大きな欠伸をした。というか、俺の彼女ってみんな性格悪いけど、みんないいとこあるなあ、とも言った。もう一度、蹴ってやった。

「そんなので、よく殺されないね」
「本気じゃないもん。本気なのはオンナノコ」
「それなら余計殺されるでしょうが」
「みんな、俺が本気じゃないことわかってるって、言うし。俺はそういってるし」

ああ、こいつがボスだ、としみじみ感じた。だが、女の敵ともいえるこのボスのことを憎らしいとは、不思議と思わないのだった。きっとほかの女の子や、こいつの友達である男の子も、そうなのかもしれない。でもきっと、あの「怖さ」を知っているのは、私だけか。

マナは、「愛」という字を名前にもつくせに、人を本気で好きにならない。愛さない。私は愛せないのだと思う。人からもらう、いろいろな形の「愛」を知らないからだ。
彼の母親は、マナが小学生のころからほとんど家におらず、私は彼女の顔をほとんど覚えていない。もちろん、小学生のマナが自炊できるわけもなく、だからよく私の家に来てはご飯を食べたり、泊まったりもした。
彼の父親はといえば、海外ではたらいているとかいう話も聞いたけど、音沙汰もないようだったし私の家族間でもその話しにはまったく触れていなかった。両親も、私に言えなくて言わない、のではなくて知らないから言えない、のだろうと思う。

もちろん、マナはそんな話をおくびにも出さない。

何よりも、いつもヘラヘラしているマナが無意識的か意識的か、たまに無表情になるときがある。それが怖い。そんな顔をしている彼に、その話をふることなど絶対に無理だ。きっとあの顔は「愛情を知らない顔だ」と、私は勝手に思う。なんの根拠もなく「愛を知らないのは恐ろしいことだ」などと、高尚な作家よろしく思ったりもする。彼は、自分が哀れまれている雰囲気には過度なほど敏感で、私は内心いつもひやひやしていた。

当の本人のマナは、第一彼女のマオから第五彼女のユカまでのよさを、延々と語っていた。リエの名前はもう入っていない。

「ていうか、嵩、用事あったんだろ?」
「母さんが、今日のご飯はどうするって言ってたんだけど、どうする?」
「ん、今日は遠慮しておく。マオと約束してたんだ」
「リエとも約束してたんじゃないの?」
「も、いいや。お前は滉太とどうなの?」

どうも何も、清く正しいお付き合いですよ、と言おうとした瞬間に滉太が屋上の扉をあけた。見計らっていたとしか思えないタイミングで、彼は堂々と入ってきたのでどうだかわからないが。マナも驚いたのか、起き上がって滉太を見つめている。どうか、あの無表情じゃありませんように。私の素敵な彼はマナによっ、と低く言った後、私を見た。

「俺、帰るけど、さっきリエに会ってお前と愛灯がここにいるって聞いたから。嵩がもう用事とかないなら、一緒に帰ろう」

リエが何も吹き込んでいないことを願う。声が上ずりそうだった。

「うん、帰る」
「愛灯は?」

まさか自分が尋ねられると思っていなかったのだろう、マナはびくりとしてから、いつもの調子でにへら、と笑った。

「まさか、なんでこの俺がカップルの邪魔するんだよ。二人で帰れば。俺、まだここで寝てくよ。滉太は人がよすぎんだよ」
「そうか。じゃ」

滉太はとくにこだわる様子もみせず、くるりと引き返していったので私もあわててついていく。



「なあ、嵩」

帰りに寄ったファストフード店で、私が大口を開けてドーナツをほおばっていると、正面に座った滉太がじっと見つめてきた。

「なに?」

すばやく噛み下して、オレンジジュースで口直し。ドーナツは好きだけど、口が渇くのが難点だ。

「俺、ずっと思ってたんだけどさ、愛灯って嵩のこと好きなんじゃないのかな?」
「まさか」

すぐに即答したのには、もちろん自信があった。あのマナが、私を好きになるなんて、地球の回転が逆になってもありえない。そう言っても、滉太は納得しない。不服そうに眉間に皺をよせ、口を尖らせている。

「確かに、あいつの家庭は結構複雑で嵩の家族と、あいつが仲良いのも仕方ないと思う。そりゃあ当然、嵩と愛灯だって仲良くなるわけだろ。それはいいんだ。仕方ない。それに、あいつのこと嫌いじゃないし、俺。友達多いってことは嫌な奴じゃないってことだし。だけど」

仕方ない、じゃ割り切れない。お前のこと好きだから。

決してそんなこと、恥ずかしがりやの滉太は言わないけれど、その目線で勝手に解釈してしまった。まさか、こんなに自分のことを好きでいてくれる彼氏を差し置いて、私がマナに走るだろうか。大体、マナは一人を好きになんてなれない。いろんな形の「愛」を模索している最中だし、これからもその形は変わらないだろうと思う。

あのハイカットには、誰もなれないのだ。

胃が、キリ、とする。



「でも、俺、なんていうのかな。すごい感覚的なもので」

もう暗くなってしまったから、滉太は私を家まで送ってくれた。中に招待してもよかったのだけど、父と母に何を言われるかわからなかったので、できない。家に入っていいのは愛灯だけらしい。何度も抗議したものの、あのじじいとばばあは聞いてくれなかった。

「愛灯が話すと、なんでも、カタカナに聞こえるんだ」
「どういうこと?」

彼は私の髪をゆっくりなでながら、考えるように目線を上にやる。私よりも少し高い彼を、この角度から見るのが一番好きだ。

「リエ、とか、マオ、とかそういう人の名前。どうでもいいですって、感じで言うのに、お前の名前。『嵩』って言うときだけ、ちゃんと漢字の名前に聞こえるんだ。どうしても。考えすぎかな。なあ」

ぎゅっと、抱きしめられる。こんなとき、きっと滉太は少年漫画よりも少女漫画の方が好きだろうな、などと思う。

「うん、考えすぎ」

私は彼に、そっとキスをした。



それから一週間ほど、愛灯に会わなかった。いつもなら、二日に一回は家にきてご飯を食べていたのに、もう一週間もこない。学校で、彼のクラスにいってみると、学校も休んでいると言われた。第一彼女のマオに聞いてみたところ、一週間前のあの屋上でずっとごろごろしていたから、風邪を引いたんだ、と彼女は言った。

「シュウちゃん、マナの家知ってる?」
「いや、知らない」

彼女はかなり鋭い瞳で私を見つめてくる。色白で、瞳は黒く、まさにオンナノコ。その外見とは不釣合いな鋭い瞳は、あのときのリエとまったく同じだった。ああ、そんな顔するとマナに嫌われるよ。もちろん、言えない。

「リエが言ってたけど、シュウちゃんとマナ、家が近いんでしょ?」
「え、ええ、いや、なんか、そんなこともないようであるような」

リエめ。私は走って、逃げた。



薬と、食材と、合鍵を持って、マナの家に走った。何かがあるといけないから、とマナがうちに置いていった合鍵は、なんでだろうやまぶき色のコーティングがされている。借りていたパーカも、持った。

「マナ?生きてる?」

鍵を使うことなく、中からがちゃり、とあいた。

「おう、遅かったな」
「馬鹿かお前は」

おでこに熱冷ましシートを貼った彼は、存外元気そうだったが、やはり熱があるらしくふらふらとしている。部屋の真ん中に布団が引いてあって、マナはそこにごろりと横になった。

「一週間、なんで連絡してこなかったの?」
「連絡、しようと思ったんだけど携帯の充電きれちゃったし、充電するのも、面倒で。でもぜったい、嵩がくると思ったんだ。おばさんでも、おじさんでもなく、嵩が来るって。なんか」

聞かない振り。私はすばやく動いて、おかゆを作り、彼の携帯を充電し、ご飯を食べさせて薬を飲ませた。

「はは、嵩って母さんみたいだな」
「あんた、おばさんにこんな風にしてもらったことあるの?」

しまった。マナは不意に無表情になる。
ギリ。
胃がコレまで以上にひねくれているみたいだ。気持ちの悪い汗がどっとあふれた。
彼は無表情のまま、口を開いた。

「お前さ、滉太とケンカでもしたの?」
「なんで?」
「あいつ―」

携帯が、鳴った。マナの携帯だ。彼は無表情のまま、携帯を充電器からはずし、電話に出た。

「もしもし?あ、マオ?」

鋭い瞳。ふっと思い浮かぶ。なんだか、彼女が今、私とマナが一緒にいることを見透かしているのではないか、と思って怖くなる。
食器を片付け、部屋を出ようとする。マナは無表情のまま、でも声は変に明るく、いつもの調子で話している。

怖い。もう、怖い。彼女たちも、無表情のままのマナも、ギリギリ痛む私の胃も。

玄関に立った瞬間、後ろから抱きすくめられた。振り返ると、もちろんマナだった。片手だけなのに、振り払おうとしても、ぐっと力を入れてしまわれると動けない。じたばたする私を尻目に、マナは平然と電話を続けている。

「うん、うん、もう大丈夫。熱大分下がったし、早くマオに会いたいな。うん、うん」

ふっと、マナの唇が耳元にくる。かすかに聞こえる、彼女の話している声。ずっと話している彼女。

「嵩」

本当に小さな声で、マナは息を漏らす。彼女には、聞こえない。

―『嵩』って言うときだけ、ちゃんと漢字の名前に聞こえるんだ。

首筋に唇が触れる。

目の端に、あの泥だらけのハイカットが映った。




「あら、愛灯くん、久しぶりね。風邪引いてたんだって?」

階下から、母のはずんだ声が聞こえてくる。
私はキツイ体勢を維持したまま、ぴたりととまる。ペディキュアを、リムーバーでとっている。もう、やまぶき色になんか、しない。

誰かが階段を上ってくる。母じゃない。父じゃない。

また、胃が、キリリとした気がした。



END



***

久しぶり?にちゃんとした恋愛ものを書いてみようと思って。
愛灯を、もっとかっこいい人にしたかったのに、無理でした。
 

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