あいいろ、ぬりかさねて、


なー、なー、と美和が後ろでないている。
冬の早朝4時。
もちろん日はでていないし真夜中といっても十分通る静けさだ。何度も何度も重ね塗りしたような、深いふかい藍色が、家の屋根の向こう側にどこまでも続いている。寒い、が、眠気は飛ばない。マフラーに鼻をこすりつけながらあくびを噛み殺した。ぼんやりと視界が滲んだ。美和の鳴き声も、遠くに聞こえる。たまに街灯がきしきしと言うのだけがはっきり聞こえた。ああ、夜じゃなくて、やっぱり朝だ。なんとなく、思う。二、三時間後には顔をだす、薄い色の太陽を思った。晴れだろう。湿り気を帯びた匂いが若干するが、美和は雨が降る日には決してこない。一樹は振り返り、美和が自分に追い付くのを待つ。



美和がやってきたのは30分前だった。
一樹が重さを感じて金縛りかと一瞬思ったのち、目を無理に開いて美和が自分の顔を覗き込んでいるのを確認した。眠気が強すぎてまぶたが鉛か、上まぶたと下まぶたに強力な磁石がついているのか、とにかく持続的に目を開くことができない。が、美和がこちらを凝視しているのは雰囲気で十分感じていた。彼女に背中をむけようにも、蒲団の上からのしかかっているのでぴくりとも動けない。ふん、と生暖かい息が一樹の鼻先にあたった。あまい、タマゴボーロみたいな匂いがした。

「散歩、いこ。朝だから、ほら、散歩」

うたた寝の状態で、何度もそう耳元で呟かれる。まぶたは未だ重いが、起きるまで美和は呟き続けるだろう。一樹は渋々かすかに頷いた。目は閉じたままだったが、彼女が嬉しそうに跳ねて玄関に向かう様が容易に想像できる。毛布を三枚と羽毛布団を一枚重ねている蒲団はそれなり重いが、こんなにも動きが鈍いのはおそらく今が早朝だからで、当然一樹の頭はまだぼんやりしている。ほとんどくっついてしまっているまぶたのすきまから、時計を確認する。視力が悪いのと、やはり眠さとではっきりとした時間は確認できなかったが、すくなくとも夜明けの近い時間ではないらしい。

「はやく、ね、一樹、はやく」
「ん」

玄関から美和の弾む声が彼を呼ぶ。ねずみ色のスウェットのまま立ち上がり、冷えた床を素足で踏む。つめた、となんとなく覚めてきた頭で思うものの、どこもかしこもぼんやりしているようだ。ベッドに腰掛けたまま靴下を履き、台所のテーブルに放置してあったダウンジャケットを羽織り、ニット帽をかぶる。マフラーもしっかりとまいた。まさかこんな時間に、とは思うものの顔見知りにはあいたくない。のろのろと玄関に向かう。美和はしっかりとお気に入りのハイカットスニーカーを履き、スキニーデニムのせいでより細く見える足でとんとん、とリズムを刻んでいる。

「はやく、はやく」
「ん」

何を急ぐことがあるのだろう、と思いながら、一樹は足を乱雑にスニーカーにつっこんだ。靴紐を結ぶのもきちんと履くのもいやで、かかとを踏んだままで美和の方を向く。美和は彼の準備が整ったことを確認すると、玄関のドアを開ける。もちろん、というか、やはり、というか空はまったくもって真夜中の色をしていた。美和の着ているトレーナーの色も同じようなくらい色で、一樹よりも一足先に出て行った彼女はそのままするりと空気に同化してしまいそうだ、と一樹は思う。後に続いて外に出る。風はないが、しっかりとした冷気が体を包む。


「なーなー」
「ん?」

行き先はいつも決まっている。少し離れたところにある公民館。歩いて十五分ほどを、二人はゆっくり倍以上の時間をかけて歩いていた。途中、そんな風に美和が言うので彼女の後ろを歩く一樹が、反応する。美和が振り返った。

「なーなー」
「だから、何って?」
「猫、って、にゃーにゃー泣くっていうよりも、なーなーって感じ。しない?」
「わかんねえよ」
「なー、なーって」

特に一樹に問いかけていたわけでもないらしい。美和はわざと大きく手をふり、大きく足を踏み出し、それでもゆっくりゆっくり歩いていく。猫の鳴きまねをしながら、とん、とん、と小気味いいリズムを刻んでいく。一樹はずるずると足を引きずって歩いている。眠さは当分ぬぐえないだろう、と思う。マフラーに染み付いた自分の匂いをかぐ。少し、安心したがくしゃみがでそうになって、無意識のうちに我慢した。

美和がたまに立ち止まったり、一樹がそのまま歩いていったり、追い越したり追い越されたりしながら二人は早朝の町を歩いていく。家々が寝静まっていて、おそらく猫さえも眠っている中で動くのは二人と、二人にくっつく影だけだ。



「鉄棒、鉄棒したい」

少しゆるい坂道をのぼると、そこに公民館がある。いくつかの遊具があって、二人はよく散歩といってはここにきていた。美和が鉄棒にむかって走り出す。やっとまぶたの錘がとれたようで、一樹は走る美和の後ろ姿を見つめながら後を追う。美和はどんなときでも薄着だ。着込んでいる自分が、彼はバカらしくなってくる。

「鉄棒小さかったー」

小学校低学年向けに作られているのだろう、その古びた鉄棒は美和の腰ほどしかなかった。彼女は身軽に鉄棒に座る。足を少し不自然に曲げなければ地面についてしまうのだろう、ぶらぶらと大げさなほどに両足を振っている。一樹もその隣の鉄棒に座った。当たり前だが、自分が大人になっていたことを実感する。大きくて、逆上がりをするのにも苦労した鉄棒も、今は本当に鉄の棒でしかない。足がかなりあまる。美和は鼻歌を歌いながら、気持ちよさげに冷たい空気を顔に浴びていた。
その横顔を見ていられずに、一樹は目をそらした。

「あたしね、猫と夜明け前の朝が好き」
「なんで」
「猫、って、いいじゃん。自由だもん。夜明け前も、ね、自由だよ。誰も起きてないの。みんな寝てるの。ママも、パパも、私の知ってる人は、みんな、寝てる。あたしと、一樹しか起きてないんだよ」
「お前が起こした。まだ、俺眠いよ」
「あとね、この空気も大好き」

はあ、と吐いた美和の息がすぐに白くなって消える。街灯のきしきし言うのが、聞こえる。静かな、静かな夜明け前。
深い藍色をつくりだすために、どれだけの朝が、昼が、夜が、吸い込まれていって、いろんな空気の層が重なっていて、きっと誰かの涙や痛みや苦しみや、それだけじゃなく、喜びも楽しさも、総て塗り重ねたらきっと、あんな色になるのかもしれない。
美和が猫の鳴き真似をした、この夜明け前に、たどりつくためにいくつも塗り重ねてきたもの。

「なあ、美和」

手袋をしてくるべきだった、と一樹は自分の手をすり合わせながら思う。美和が一樹を見る。頬が赤く染まっていた。
美和がすとん、と鉄棒から下りた。一樹の真正面に立つ。一樹も鉄棒から降りた。彼女の冷えた頬に触れる。自分の手が冷たいのか、美和の頬が冷たいのか、とにかくひんやりとしたこの感覚ではじめて、しっかりと目が覚めたように思える。

きんと冷えた空気に負けないほどに、美和は、凛とした皮膚をもって息をしている。

「もう、俺んとこ、会いにくんな。だめだ、お前にはちゃんと父親も母親もいるんだから。こんな時間に出歩くのはまだ早いし、な」
「あたし、四捨五入したら二十歳だよ」
「そういう問題じゃないだろ」
「やだよ」

美和の指が、一樹のダウンジャケットを掴む。

「やだ、やだやだやだやだやだやだ」
「四捨五入で二十歳っつったろ。駄々こねるな」
「そういう問題じゃない」

彼女はうつむいて、ずるずる鼻をすすった。泣いているのか、と尋ねたが美和は答えずに乱暴に自分の目をこすった。一樹は自分の、節としわが少し目立つようになってきた手のひらを少し見つめて、そして美和の頭をぐりぐりと撫でた。まるで猫にそうするように、愛しさをこめて、撫でる。その振動で頭が揺れるたび、美和はうっうっう、と声を漏らした。はは、と笑うとその声が白くなって、やはりすぐに消える。

「お前、考えてもみろ。無職の父親がどこにいるんだ。夜も昼も、寝てるしかしてないんだぞ」
「ここにいる。一樹、あたしの父さん」
「血のつながりだけだよ」
「だから、父さんっていうの」
「じゃあ今の父さんは」
「あの人は、パパ」

美和は顔を真っ赤にして、一樹に抱きついた。依然として、一樹は美和の頭をぐりぐり撫で回す。




十年前、手放したはずの娘が三年前にひょいと、まるでいつもそこにいたように部屋にやってきた。

一週間に三回くるときもあれば、一ヶ月こないときもあった。それでも、決まった時間にやってくる。夜明け前の、この時間。だから夜は鍵を閉めることができない。まさか、娘をこの寒い中放置して凍えさせるわけにはいかない。

夜が明けない時間だからこそ、親子二人きりになれる時間でもあった。静かに、深い藍色を、何度も塗り重ねてきたこの時間だった。



「…久しぶり」

一週間前、久しぶりに見た妻の顔は少し痩せて、より神経質に見えた。彼女は一樹をしっかりと見ようともせずに用件だけを早口に言って去っていった。

「いい加減にしてほしいの。美和も、好き勝手しているけれど女の子なのよ。それにできるだけあなたのことは伏せておきたかったのに。お願い、私が言っても聞かないから、美和にあなたから言ってくれない?もう出歩かないようにって。常識的じゃないわ。ねえ、私が言うのも筋違いかもしれないけれど、まだ定職にはついてないの?きついこと言うかもしれないけれど、そんな人が美和の隣にいてほしくないの。わかるでしょう?お願いね、もうそれが済んだら来ないから」

返事をする前に、彼女は席を立った。平日の、天気のよい、昼のファミリーレストランでするにはあまりも現実的すぎるような話だった気が、しないでもない。そうか、と一樹は頼んでいたブラックを一気飲みする。苦味が舌だけでなく、咽喉までも染み渡る。もう一度、今度は声にだして「そうか」とつぶやいた。





「帰る」

しばらくの間、一樹に頭を撫でられ続けていた美和はふいにそこから退いて、来たときと同じ調子でリズムを刻みながら遠ざかっていく。とはいえ、快調な様子でなく少し足を引きずりながら歩いていく。一樹もその後ろを、やはり足を引きずりながら歩いた。

帰り道、街灯のきしむ音は聞こえずに、かわりにかすかな町の目覚めの音が聞こえてくる。大きな空気のながれ、湿った空気、どこかで車が走る音、鳥たちの羽ばたき、遠くで誰かを救うサイレンの音。
美和と一樹の歩調が一緒になる。
空の淵が白く、黄色く、水色に染まり始めた。塗り重ねてあったはずの色が、顔を出す。

「美和」

その横顔は、まるで妻にそっくりで、だがやはりまだそがれてはいない強さや、しなやかさがある。

「俺はね、いつも美和のことを思ってる。もうあえなくてもな、夜は、いや、夜明け前は俺たちの時間だよ」
「うん」
「お前が、猫の鳴きまねしてたあの時間は、俺たちの時間だったよ」
「…ん」

美和の、張り詰めた頬に涙が伝う、が、顔を出した太陽に照らされてかすかに温まり始めた空気の中で、彼女は輝いている。

「なーなー」

一樹が言うと

「違う、なー、なー、だよ」

ずるずる鼻をすすりながら、美和が笑う。その息はもう、白くない。
深い藍色に塗りつぶされたか、どうかは、わからない。


END

***

ずっと前に書いたものを記憶だけを頼りにリメイク。
いつも、話が唐突だと、反省しています。

 

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