Boring to Me 全てがスローモーションみたいに動いていた。 あたしの右手は、まるで漫画のオノマトペみたいに「ぶん」と空気を切ると、ゆっくりと弧を描きながら彼の頬にめり込んだ。「ごり」とやっぱりオノマトペみたいな音がして、彼はそのままその場に崩れ落ちた。うう、とうめいたような気がしたけれど、それはすごくちんけな感じで笑ってしまう。第二関節と、手の甲の四つ並ぶ軟骨みたいな骨がジンジン痛むので、あたしは左手で右手をゆっくりさすりながら、倒れた彼をじっと見つめた。彼は倒れたまま、顔も伏せていて、ううとかああとかそういうことをうめいていた。突っ立ったまま眺めていたけれど、一向に起き上がる気配がない。弱くて、バカで、なのに私に仕返そうとはしない彼にイラついて、転がる背中を思い切り蹴飛ばした。「どん」とくぐもった音。続いて咳き込む音。うう、と、またうなっていた。横向きになっていたからだを仰向けにして、赤くなった左頬を両手で押さえて。 「・・・ゆ」 ぷっつん、頭の中で切れる音がして彼をぐちゃぐちゃにしたい衝動が走った。高校のとき、魚類や鳥類は大脳が小さいから理性がないんだって話を聞いたのか、勝手に思ったのか定かではないけれど、今のあたしは大脳がなくなってるんじゃないかって思う。彼に馬乗りになって、殴って殴って殴りまくった。殴って、殴って、殴るたびに彼がもらす嗚咽が、あたしをあおる。ヘンタイ。心の中で自分をののしる。そうすればそうするほど、あたしの腕は止まらない。バカみたいに、いや、ただのバカなんだけど、とにかく殴って殴って殴って、自分の手の感覚がなくなったころにようやく彼からどいた。怒っているのか泣いているのか、わからないけれど、涙と汗と鼻水と血でぐちゃぐちゃになった彼はぼんやりと、見下ろす私を見ている。ばーか。声には出さず、声の動きでそう言った。ヘンタイ。そうとも言った。そしてへらへら笑った。どうしようもなかった。へらへら笑っていたら、バカみたいに泣けてきた。そうしたら彼も泣き出した。ああ、とかううとか、うめいてるのか泣いてるのかとにかくその全部で、彼はないている。 嗚咽の間にふん、ふぅん、と死にそうな犬みたいな呼吸をする彼を横目に、あたしは部屋の隅に座ってぼんやりとタバコに火をつけた。視界に映るのは転がる彼と、何も貼ってない白い壁、ほとんど荷物が乗っていないシルバーラックと小さな机。毎回毎回こんなに暴れていても、あたしの殴り方がいいのか彼の倒れ方がいいのか、破損したことは一度もない。家具以外は。さっき投げたコップが姿見に当たってどっちも割れた。それに腹が立ってあたしは彼を殴った。まだわんわんと泣いている彼。あたしは壁にもたれて紫煙の行く先を見つめているけれど、彼泣き声が鬱陶しい。足元に散らばっていたコップの破片を、彼にむけてなげつける。びくりと波打ったからだは、一瞬固まって、思い出したようにまた呼吸を始めた。 「あ、由樹さん」 大学の食堂でゼミのテキストを読みながらコーヒーを飲んでいると、サークルの後輩の浅木がスーツ姿でコーヒー片手に現れた。ため息をつきながら、ネクタイをゆるめてあたしの向かい側に座った。1ヶ月ぐらい前に会ったときは髪の毛も長くて茶色かったのに、今はいかにもな好青年という感じで黒髪短髪、肌の色も心なしかつややかになっている。そういう健康そうな面をしてるのが一番ムカつくので、テーブル下で思い切りすねを蹴ってやった。今日は先の尖ったパンプスを履いていたから、たいそう痛かったらしく浅木は大げさにも見えるしぐさで突っ伏した。 「もー、キョーレツ。久しぶりなのに、由樹さんは相変わらず」 「んだよ、スーツなんか着て」 「シューカツ。世の中みーんな由樹さんみたいに要領よくできないの」 特に興味もなかったので、ふうん、と生返事をしただけでもう一度テキストに目を移す。それが気に食わなかったらしく、浅木はつらつらと今日のシューカツはどうだったかとか今はどれだけ不況だとか、とはいえ内定をもうすでにいくつかもらっている、なんてことをしゃべっている。要領がいいのはあたしじゃなくお前だろう、と思ったけれどそれを言うのもなんだか癪だったので黙ったままでいた。 「んで、和さんとは上手くやってんですか」 「何が」 「付き合い。ちゃんとエッチしてんの?」 今度はさっきよりも三割り増しで思い切りすねを蹴り上げた。う、とくぐもった声を出し、イスの上でのけぞってもだえている。 今朝方、あたしを送り出した彼を思い出す。昨日散々殴ったせいで彼の顔は少しはれていて頬は青紫色になっていた。それなのにいつもと変わらぬようすで、静かに微笑んでいってらっしゃい、と聞き取りにくい声で言った―たぶん、口の中が切れていてしゃべるたびに痛みが走るからだろう。あたしは返事をせずに家を出た。たまたま いつからだったろう、それははっきりと覚えてないけれど頻繁に彼を殴るようになったのはここ一年ぐらいだと思う。最初は思いきり頭をはたいてみたのか、ベッドにもたれる彼の背中をベッドに座る私が思い切り蹴ったのか、始まりもよく覚えていないけれど。昨日ほどあんなにひどくしたのは初めてだった。 もちろん、和唆にあんなに手ひどいことをしたのだから、あたしの手の甲も赤黒くなっていて普通の怪我よりも見た目が悪い。骨もまだにわかにじんじんする。殴りなれているわけじゃないから、ヘタなんだろう、なんて思ってそっと右手の手の甲を撫でた。まだそこに、和唆の頬の熱があるみたいでなぜだか鳥肌がたった。 あたしのふるう暴力はひどくなっていく。なのに、彼は罵倒することも、非難することも、手をあげることも、何もしない。ただ、受け入れるだけ。 「ツンデレっていうんですよ、実はそういうの。俺はキライじゃないけど」 「あたしはあんたのことスキじゃないけど」 「そういうのがツンデレっていうんだってば」 もう一度蹴ろうと思ったが、さすがに学んでいたらしくニヤニヤしながら避けられた。放課後の食堂は人もまばらで、とくにはばかる必要はないように思われたので手を伸ばして頭を思い切りはたいてやった。ぱこん、とよい音がする。頭になんにも入ってないんじゃないの、と言うとうるさいなー、と笑う。 「和さんにもいっつもこんなんなんですか」 「何が」 「すぐに蹴ったり、殴ったりして。あ、でも由樹さんが意外に甘えたがりだからそんなことないのかな」 「また殴られたいわけ?」 「もー、ドSなんだから。和さんはきっとドMなんですよね。こんな由樹さんに付き合ってられんだから」 「ばかじゃない」 「何が?」 「その考えが」 あたしはしゃべるのも億劫になってタバコに火をつけながら、テキストに目を落とした。もー、ここ禁煙でしょ、という浅木の声を聞いていたらふよふよとテキストの字がにじんできて、あ、何、どうしたの、という声で顔をあげて初めて自分が泣いていることに気づいた。手の甲がじんじんと痛んで、どうしようもなくて、あたしはこんなにも痛みに弱いということを、テーブルの上に落ちる自分の涙の粒を見つめながらぼんやりと思う。 浅木は自分が余計なことに触れたのかと心配になったらしく、盛んにどうしたのとか大丈夫とか声をかけてくるけれど、言葉よりも涙が先行してしまって思考も停止していて、何も言えない。ただただ手の甲が痛くてじんじんと熱くて、和唆の泣き声や殴られて横たわる姿が鬱陶しいと思っていたのに、今の自分の方がよっぽど鬱陶しくて、涙がぼろぼろ落ちた。 何を言ってもあたしが泣き止まないので、浅木は大きくため息を一つだけして乗り出していた身を引っ込めた。そうしてあたしが指に挟んだままのタバコを引き抜いて、自分のコーヒーの飲みさしに突っ込んで火を消した。しばらくは泣いているあたしをじっと見ていたけれど、不意に横を向いて窓の外を眺めているようだった。 西側の壁が全面窓になっているここは、夕方になっても西日をうけて黄色とオレンジ色に長く染まっている。秋と冬の狭間になって日が落ちるのが早くなったといってもここはまだ十分に日が落ちるまでの猶予を味わえる気がする。浅木につられて学内を歩くまばらな人影を、にじむ視界での中でなんとはなしに追っていた。アパートに帰ってあたしはじっと、彼を殴るのだろうか。どうせ答えは見えているのに。ばかげてる。 「由樹さんは」 あたしが泣き止んだ後、いつのまにかテキストを勝手に読んでいた浅木は顔を上げて少し苦笑いをした。 「俺とはエッチしてくんないでしょ」 「死んでもやだね」 「ね。じゃ、俺行きます。由樹さん、アイメイク全部落ちてるからひどい顔してる」 立ち上がった彼は吸殻の入ったカップと、あたしが飲み終わったカップを持って席をたった。ひらひらと手を振ってみせると微笑んで去っていった。 辺りが大分暗くなっていて、あたしもゆっくり立ち上がる。バッグから鏡を取り出して見てみると予想以上にひどい顔をした不細工な女がいて、目の周りも真っ黒でぎしぎしと傷んだ金に近い茶髪で眉毛もなくて。はは、と笑いがこぼれた。 アパートに帰り、玄関を開けると灯りがついていなくて、不審に思いながら中に入ると置手紙だけがテーブルの上にのっていた。 『急な呼び出し。少し帰れないかも、ごめん』 あたしは悔しくて、こんなにも今、和唆がいないことが悔しくて声をあげてなきながらその紙を破いて捨てた。 二、三日して夕方に和唆が帰ってきた。スーツを着ていて疲れた顔で玄関から黙って入ってきた。 あたしはというと、レポートのために資料を整理しながらパソコンに向っていたので、最初は彼に背中を向けていた。彼がダイニングを通ってこっちの部屋に入ってくるのを背中で感じる。 「ただいま。後輩がやらかしてくれてさ…会社に泊まるなんてびっくりしちゃうよ」 ネクタイを緩める音。ジャケットを脱ぐ音。すぐ後ろに座る音。 まだ振り向かない。振り向いたら負けてしまう気がする。すぐ傍にあった、分厚い本を手に取る。これが今、必要なのか必要じゃないのか、もう思考回路は停止している。ただ一粒一粒の文字の並びが、今、私にどんな救いを与えてくれるのか。 「…すごい本。レポート、大変なんだ。何やってんの?」 すっと彼のアゴが肩に触れる。少し汗臭い。タバコの匂いもする。吸ってるくせに、ここでは絶対に吸わない。あたしは吸うし、その灰皿を彼に投げつけたことだって何度もある。なのに、彼は、ここでは絶対に吸わない。 顔を右に向けた。 目が合う。 何も見てない目。 何も映さない目。 あたしが見てみぬふりをしてきたもの。 「せーな」 右腕で彼の顔を振り払いながら立ち上がった。本当は避けられるくせに、彼はダイニングとこの部屋を区切るガラス格子の引き戸に派手にぶつかった、が、ガラスは割れなかった。がしゃんがしゃんと反響音が部屋いっぱいにひびいた。耳障りな音、耳障りな鼓動。 「っざけんじゃねーよ、スカしてんじゃねーよばかやろう」 見つめてくる彼の左頬を右足で蹴った。げほ、とむせて床に倒れこむ。あたしはそこらへんに散らばったプリントを蹴散らして、本だってふみつけて彼に馬乗りになった。 和唆は、セットが崩れた髪の毛の間からあたしを見つめている。何も、問うてこない。 何も、あたしに、感じてない。 彼は、あたしに、何の思いだって感じてないのだ。 何も。 拳を彼の顔面に振り落とした。頬骨のへこみに第二関節がめり込む。その衝撃で、和唆の顔は床にバウンドしてぶつかった。ごっ、と音がして息が荒くなる。三回、同じようにして殴った。ごっごっごっ、音が三回。痛みか衝撃か、そのどっちかかしれないけれど、麻痺してしまって口が上手く閉じないらしい。彼は口から床によだれをたらした。は、は、と息をしてる。言葉は発しない。 あたしは彼からどいて、横向きに倒れる彼の横腹を上から踏みつけた。うへ、と、間抜けな声が彼の口からもれる。腹がたって今度はみぞおちにつま先を突っ込んだ。あ、と細切れの嗚咽。 彼の、そうした一つ一つはただの呼吸で、悲鳴で、嗚咽で、決してあたしの名前を呼びもしない。 聞きたい二文字を、そのばかげた二文字を形成する音を、彼は、作らない。 悔しくて、こんなにもあたしが和唆をスキなことが悔しくてあたしは泣きながら彼を殴った。 どうせなら、あたしが殴られたい。 めちゃくちゃに、ぐちゃぐちゃに、鼻血だって口の中をきったって、いい。 その目に、あたしを映して欲しいだけなのに。 「ねえ、なんで何も言わないの、なんで何もしてこないの、そうやって、お前、いつも、そうやって―、殴ればいいじゃん、ぼこぼこにすればいいじゃん、何で何もしないの―!」 ひゅう、と彼が息を吸った。 そして、はっきりと答える。 「やだ」 足元に転がっていた本を掴んで―辞書ぐらいの厚さがある論文集だった―、彼の横顔を殴りつけた。ごふ、と咽喉の奥から声とも音とも呼吸ともしれないものが漏れて、彼の口からぽん、と何かがはじけて血がどろどろ流れた。 白い、歯。 こんな、ひどい男の、なのになぜ、こんなにも白い。 ただ、二文字を、聞きたい、だけなのに。 どうしてあたしは、和唆をこんなに好きなのだろう。 どうして和唆はあたしに、何も思わないのだろ。 もう、どうしたらいい。 好かれるにも、嫌われるにも、どうしていいのか、ただ、わからない。 和唆はそこに横たわったまま息荒く、あたしはへたりこんで泣きに泣いた。 咽喉がひどく痛んで、目を覚ました。 まぶたが重くて視界も狭い。泣きながら寝てしまったのだということに気づく。部屋にはこうこうと灯りがついていて、血の匂いと二酸化炭素がまじってもわりとした重い空気だ。上手く呼吸ができなくて、二、三回咳き込んだ。ひゅう、と気管の方で音が鳴った。 狭い視界で辺りを見回す。と、いって、何も変わりはない。和唆は気絶してしまったのか、肩を大きく上下させて眠っているようだった。口から出ていた血も止まったらしく、とはいえ彼の口元やカーペットには赤黒い血だまりがはっきりと残っている。その中に浮いている真っ白い歯。 あたしはふらふらと立ち上がって、そっと血だまりの中に浮かぶ歯を手にとった。どこから何番目の歯なのか全然検討がつかないけれど、タバコを吸っているはずなのに綺麗な歯は、もしかしたらやっぱりタバコなんかすってないんじゃないかとも思わせる。もう、どうでもいい。 楽しくもないのに、笑いがこぼれた。 和唆は寝ている。 頬の熱が失われたらしく、青紫色にもう変色していた。 彼を何度なぐっただろう、何度蹴り飛ばしただろう、何度ののしっただろう。 どれだけ悔しさを、愛しさを、感じただろう。 彼の頬にそっとキスをした。血の味がした。 外に出る。 雨が降っていたのか、もしくはこれから降るのか気持ち悪い湿度の中、あたしは歩き出す。ポケットには彼の歯が入っていて、それを思うと少し悲しくもあったし心強くもあった。 足を一歩踏み出すたびに彼を蹴っているような気がしたし、腕を交互に動かすたびに彼をなぐったみたいに指がじんじんと痛むような気がした。そうして、この湿気はさらに進みにくさに拍車をかける。が、あたしは止まってはいけない気がしていた。 気がしていた。 END *** リクエスト「殴る話」でした。ず、ずいまぜん… とりあえず今回の話を書いた結論=にゃくは歯が抜けるのが好き |