ひとなつ
少し寝汗をかいていて、目を覚ましたらもう昼過ぎだった。とはいえ、縁側に面している障子を全て締め切ってしまうと薄暗いこの部屋にいれば、今が朝なのか昼なのか、夕方なのかよくわからない。時計さえもない。昼過ぎだと思ったのは、蝉がじいじいとせわしなく鳴いているし、朝なら母や祖母がばたばたと動いているからだ。 ゆっくり起き上がり、はだけていた寝巻の裾を直した。浴衣を着て寝るのなんて、こんな田舎だけだと思う。枕元には真っ白いワンピースがあって、まるで明治や大正時代に出てくる貴婦人が着るような、そういう服。だからといって文句は言えないので、私はするするとそれを身に着けた。真新しいシーツみたいなその生地は、ひどく他人行儀な冷たさ。
「あら、起きたの」
日は当たるのに不思議と冷たい廊下を抜けると、本宅に出る。私が寝ているのははなれで、少し隔離されている気がしないでもない。 ワンピースを着て突っ立っている私を見上げ、そう興味もなさげに言った祖母はしわに埋まった目をさらに細くして、ああ、と咽喉の奥からがまがえるみたいな声を出した。
「似合うねえ。それ着とると、流産なんかしてないように見えるわ」 「母さん、やめてって、言っているでしょ」
祖母の背後にかかっていた暖簾をくぐり、手を拭きながら母が出てきた。ここのところ、母はいつも泣きそうな顔で、チクチクといやみを言う祖母をいさめている。私は、もうここにきて半年も経つので良い加減になれたつもりではあるけれど、彼女のことは好きにはなれそうもない。私が末孫だったこともあって、小さい頃は随分かわいがってもらったみたいだけど、今は小さくもないし、子どもでもない。
「芙由はお昼どうするの」
相変わらず突っ立ったままの私に、母がやはり泣きそうな顔で、それでも無理に笑顔をつくって尋ねてくる。 正直、この家にやってきてからお腹がすいたことなど一度もないので、別にいらないのだけれどそんなことはいえない。
「さっき起きたばかりだし、少し散歩してくる」 「外は暑いから体に悪いわよ、そんなの」 「でも、少しは外に出ないと。それこそ体に悪い」
玄関の方でごめんください、と声がして、しぶしぶといった感じで母が出て行く。私は勝手口から出ようと暖簾をくぐろうとすると、新聞を見ていた祖母が背を向けたままに言う。
「日傘もっていきなさい。そうしたら生娘に見えるだろうて、なあ」
それには答えずに離れに戻り、白い日傘を手にとった。これもここにきた次の日に私の部屋にあった。祖母がおいたのか母がおいたのかは知らない。縁に小さな白いレースがついている、シンプルなもので、もしかしたらこれも祖母が昔使っていたものなのかもしれないとぼんやり思う。
家の中の涼しさがやはり異常だったのだろう、外はまさに真夏の温度ですぐ近くで聞こえる蝉の声ほど鬱陶しいものはない。日差しは刺さるように白い。
「大奥さんのお孫さんよねえ」
背後から話しかけられ、若干のめまいをおぼえながら振り向く。作業用に長袖長ズボン、後頭部まで覆えるサンバイザーみたいなものをしているので顔がよくわからないけれど、老人が田んぼの中に立っていた。町に住んでいるのは老人ばかりだから、声もみな似ている。適当に会釈をし、生え際から流れてくる汗を必死にぬぐった。
ここ一体にあるのは祖母の家と、彼女が所有する土地。その大半は山か畑、もしくは田んぼ。土地を借りているのはほとんどこの辺りの人で、祖母のことを「大奥さん」と呼んで一目置いているようだった。そんな彼女の孫が、半年前にやってきたと、小さなこの町ではすぐに知れ渡り、たぶん私の顔を知らない住人はほぼいない。私は未だに知らない人が多いというのに。
こんなに汗をかいたのはいつぶりか、こんなに青臭い空気に触れたのはいつぶりか、よく思いだせない。
最近思い出すのはもっぱら、一年前の夏。
真夏に、クーラーの効いた彼の部屋。手をつけずに放っておいたアイスコーヒーのグラスがじんわりと汗をかいて、水溜りをつくっていた。彼は私の言葉を聞いて、固まって、動かなくなった。 「産んでほしい」とも「おろしてほしい」とも「別れよう」とも彼は言わず、ただ、固まった。
自分の無責任のせいで、新たに命をつくってしまった、バカな大学生。体ばかりは大人になっていて、新たにできた命に恐怖を覚えてしまうほどの、ガキ。
ただ、怖かったのだ。自分の中に得体の知れない命が生まれてしまったことが、ただ怖かった。つわりがきたり、お腹が出始めることに抵抗があったわけじゃなく、そんなことにすら現実感も沸かないぐらいに、ただ。
堕胎。
それが終わった後も、まだお腹に何かがいるんじゃないかとおびえた。
もちろん、妊娠が判明してから大学は行かなくなったし、彼からの連絡もない。どこで耳に挟んだのか、数人の友達からメールが届いたりもしたけれど、チェックするのも億劫で携帯も解約した。学校もやめた。 私はどんどん閉ざされていく。体の中心から、じわじわと。赤ん坊の泣き声が聞こえるようだった。
家庭が暗闇に飲まれる寸前に、父と母は話し合って、私と母が母の実家に移ることがきまった。
事実流産ではないのだけれど、祖母にとってみれば同じことらしい。どこの馬の骨ともしれない男と散々遊んだ後に、子どもまでつくって殺した、ふしだらな孫娘。
話しかけられるのが嫌で闇雲に歩いたせいだろう、知らない路地にはいってしまった。路地、というか、垣根と垣根の間の舗装されていない道。板塀がずっと続いている。両サイドにある、板塀の向こう側の家は祖母の家のように木造平屋で、黒ずんだ木製の壁や土塀などは随分と貫禄がある。門みたいなものを通り過ぎても、また同じような家がどこまでも並んでいた。どこだかわからない。暑い。
「いい加減にしろ!」 「おれはここから出るんだ!」 「何だと」
言い争いが聞こえたと思ったら、目の前の板塀の一部が突然開いて男の子が一人飛び出してきた。板戸になっていたらしい。投げられたように転がってきた彼は、しばらく地面に転がったまま動かない。戸はバタンと勢い良くしまり、私はあっけにとられてその状況を見ているしかなかった。
「…ってぇ」
彼は手をついて起き上がり、手やひじ、服についた砂を払う。白いシャツに黒いズボンを着ているところをみると、中学生か高校生か、そのくらいだろう。こちらを向いた彼の顔は痣だらけだった。
「…本城寺でしょあんた。なんでこんなとこいんの」
前髪が長く、目にかかっているので彼の表情はうまくみえないけれど、きゅっと結ばれた口角は下がることも上がることもない。口の脇にある痣も、動かない。ただ音を発しているんだという感じの、しゃべり方。
「道がわからなくて」 「ふうん」
私がいるのが日陰だからか、日差しの中に立つ彼の白いシャツが妙にまぶしく見える。薄茶色の髪の毛がキラキラと光って見えた。じっとこちらを見た後、彼は歩き出す。50mぐらい行った後に振り向いて、手招きをし、口を開いた。
「案内してやるよ」
隣に並ぶと、私と彼は同じぐらいの背丈で、男の子の中では小さい方だろう。さっきはまぶしくてわからなかったけれど、彼の頬には細かい傷痕がいっぱいあって、近くで見る痣はかなり痛々しい。何度もなぐられたことがあるのではないかと、邪推する。半そでから伸びる浅黒く細い腕にも痣があったし、擦り傷みたいなものもたくさんあった。それらのいくつかはかさぶたになっていたけれど、痛々しさに変わりはない。ただ色素の薄い髪の毛だけが涼しげにゆれている。
「…君、中学生?」 「中三」 「この近くに中学校あるの?」 「片道一時間。自転車で40分」
なんとなく手持ち無沙汰で、日傘をくるくる回しながら歩いているといつのまにか開けた平地に出ていて、板塀の迷路に迷い込む前に見ていた畑や田んぼの景色が視界に入ってくる。蝉がせわしなく鳴いていた。気持ち悪いぐらいに汗をかいていて、なのに隣を歩く彼は涼しげな顔でたまにぼりぼりと頬の痣をかきながら、前を向いている。
ふと立ち止まった彼が指差す先を見ると、確かに祖母の家が見えた。そして私が寝起きしている離れの屋根も。
「ありがとう」
不意にエンジン音がして振り向くと、やはり老人の運転する軽トラックが止まっていた。後ろに車がくるのがわからないほど、ここは蝉の声がうるさい。
「芙由ちゃん、神田の坊と一緒におるなんてどうしたんだ。乗りなさい乗りなさい」
なんで私の名前までを知ってるんですかと尋ねたいところだったけど、車に乗せてもらえるのなら有難い。彼がドアを開け、私は素直にトラックの助手席におさまった。老人特有のなんともいえないにおいが車内に満喫しているような気がしたけれど、わがままはいえない。効かないクーラーが音だけうるさく稼動している。 「神田の坊も、ちゃんと家に帰って母さんみたらないかんぞ」 「わかってるよ」
彼が笑った。というか無理に口角を引き上げた。痣がいたそうにゆがむ。
私は気が向けば散歩をした。理由は特にないけれど、家の中にこもってはいたくなかった。 田んぼや畑のわき道、この辺りの地理にも慣れてきたし、新しかったサンダルも足になじんできた。道行く人の好奇の目もしだいになくなって、彼らにも私がふらふらと歩く姿が定着したのかそんなに話しかけられることもなくなった。 汗をじわりとかきながら白い日傘をくるくると回すのが、少し楽しくなる。
八月になると、夕方は涼しくなってヒグラシもよく鳴く。 夕暮れの中、私はしゃがんで、ぼんやりと用水路を眺めていた。 さっきまで農作業をしていた人たちは私に会釈をし、トラックに乗って去っていった。辺りがオレンジ色に染まっていく。身に着けていた白いワンピースも同じ色になる。はじめのころは他人行儀だったこの生地も、いつのまにかよく肌になじんでいた。
「何してんの」
振り返ると、いつかの彼が立っていた。はっとする。
あの薄茶色の髪の毛が不ぞろいにきられて丸坊主になっていた。 誰かに無理やり切られたのだろうか。半そでから伸びる腕にはやっぱりたくさんの傷痕とかさぶた。頬や目元には相変わらずの痣。前とは違い、丸出しになっている額には、横に五センチぐらいある傷が横たわっていた。ただ、やっぱり髪の毛はその長さを失ってもさらさらゆれていて、夕陽とあいまってまるで金色だ。
私の横にそっと座る。
「楽しい?用水路」 「…用水路って、あまりまじまじと見たことなかったから…ねえ、髪の毛―」 「…名前、なんていうの?」
遮られる。 彼は私を見ていて、無表情で、痣は痛々しい。
石を渡されたので、地面に書いてみる。芙、由、子。
「なんて読むの」 「ふゆこ。君は?」
石を渡すと彼は地面に文字を書く。那、都、彦、な、つ、ひ、こ。綺麗な字だった。
彼は石でいくつかの単語を地面にきざむ。夏、冬、那都彦、芙由子、summer、winter、hot、cold。 もぞもぞと動く彼の腕を見つめる。男の子らしい細さを有したその腕は、なのに、力強さは何もなかった。 ふと、お腹にいたはずの赤ん坊を思い出す。細い腕。搾取されるだけの。
自分でも気づかないうちに、彼の腕にあるかさぶたに触れていた。無条件に愛しかった。
乾燥して、ガサガサした感触。かすかな汗のにおい。 びくりと体を震わせてこちらを見た彼の目はおびえていた。あ、ごめん、と声が漏れるけれど那都彦は立ち上がって、何も言わずに走り出す。白いシャツを着ているはずなのに、すぐ辺りの暗さにまぎれて見えなくなってしまった。
夜、縁側に座って月を見ていた。昼は太陽がうるさいぐらいに鮮やかに照っているけれど、夜は月が泣きそうなほどに綺麗に見える。 那都彦のことを考えていた。彼は虐待にあっているのだろうか?いじめられている? 強そうにみえて、あんなにももろい。子ども。
不意に板塀の向こうから私を呼ぶ声がした。 縁側から降りて、小さな板戸をあける。と、同時に那都彦が顔を覗かせた。 口の端から血がにじんでいる。夕方にあったときとは違いまぶたが紫色にはれていて、彼の表情をいっそうわかりにくくしていた。叫びそうになってしまった。どうにか息を呑んでこらえる。
「芙由子、お願いがあるんだ」
板戸の高さが1メートルもないので、お互いしゃがんでむきあっていて、顔も近い。那都彦の、話すと漏れる息は血なまぐさかった。薄暗いのでよくわからないけれど、前歯が抜けているようにみえる。底なしの闇。
「な、にを」 「…俺を、つれて、逃げてほしい」
そう言って、那都彦は泣いた。声をあげず、だけれど私にはその声は確かに聞こえた。ぼろぼろ泣く。こびりついていた血がとけて彼の襟ぐりを染めた。やはり歯は抜けていた。そっと庭のほうに引き入れて抱きしめる。彼もすがりついてくる。
唇が重なる。私の口にも彼の血や涙や唾液がはいってくる。愛しかった。どうしようもなく。
あたりが白んできて、どこかで鶏が鳴いた。温度がじわじわとあがってくる。私と那都彦は庭に転がったまま、たまにキスをしてはまどろんでいた。相変わらず彼の涙は枯れることがなかった。
「俺、行く」
私が口を開こうとすると、彼は遮って私に何かを握らせた。小さな、固いもの。 彼の、欠けた歯。
「じゃあね」
那都彦は朝日の中に消えていった。理由も何も、語らずに、傷だけを背負って行ってしまった。
八月が終わるころ、私は那都彦の家の方へ行ってみることにした。よくわからなかったけれど、記憶を頼りに歩いてみる。大まかな地形を把握している今、意外にも簡単に彼の家の周辺にたどりつくことができた。 やはり木造平屋が建ち並ぶそこはずいぶん静かで、まだ秋も始まっていないというのに涼しすぎる風が吹きすぎていく。
「ここだ」
那都彦が飛び出してきた板戸を見つける。玄関口に回ればよかったけれど、なんだか入りにくくてそっと板戸から入った。すぐに庭、そして縁側。不思議なことに障子に障子紙は貼られておらず、ガラスから透けるのはいくつもの木の格子と薄暗い室内。まるで人が住んでいないみたい。
そんなことを考えて、ふと思い出した。
「俺を、つれて、逃げてほしい」
泣いた那都彦の言葉。
「那都彦?いないの?」
ガラス戸にかけより、静かに叩いてみる。がしゃんがしゃん、と無遠慮な音が響くだけ。手をかけてみると、なんの抵抗もなくすんなりと戸は開いた。拍子抜けするほど軽い。サンダルを脱ぐ。 素足を乗せた縁側はほこりっぽくてざらざらした。踏み込んだ瞬間に異常なほどの熱気が奥から押し寄せてくる。私があの家の涼しさになれてしまっているからだろうか。若干動きにくく思いながら、格子戸になってしまっている障子も引く。 汗がどっと噴き出した。
大きな白いベッドが日に焼けた畳の上に、ただ一つおいてあった。 病院でみるような、しっかりしたベッド。誰かが寝ていたのか、そもそもベッド自体が重いからか、畳はベッドの足があるところだけが食い込みへこんでいた。汗が毛穴から落ちてきて目に入った。痛い。暑い。ぬぐいながら、他の部屋も見る。
でも、それだけだった。台所にも、他の部屋にも家具らしいものは何もなく、ほこりっぽい空気がかすかに漂っていた。むしむしとした気持ちの悪い空気が、漂っていた。ここで那都彦は暮らしていたのだろうか。
玄関の方から物音がして、誰かが入ってきた。 走っていくと、いつか那都彦に送られる私を車に乗せてくれた老人が、汗をぬぐいながら立っていた。彼も私を見て驚いている。
「芙由ちゃん、どうしてこんなとこにおるんだ」
暑くて、気持ち悪くて、私は倒れた。
後日、母から聞いた。私を運んでくれたのは、祖母の幼馴染のシゲさん。 そしてシゲさんから聞いた。那都彦は彼が私の離れに来た次の日にこの町を出て行ったのだという。 彼の母親が死んですぐだったという。そんなこと知らなかった。葬式もしていないそうだ。
彼の母親は体が不自由で、病弱だったこともあっていつ死ぬかもわからなかったみたいだ。 父親は母親の面倒を見ていたものの、そのストレスを那都彦に向って発散していたらしい。 中学でもそのことに気づいていながら、ことを荒立てるのをよしとしない風習の残るこの町では見て見ぬふりされていたという。
「でもなんで、出て行かないといけなかったの」
貧血で私が倒れてしまい、運んでくれたシゲさんは次の日にわざわざ見舞いにきてくれた。そこまでは滞りなくすらすらと話してくれていたのに、彼は急にぎこちなくなった。
「それは、な、ま、事情もあって」 「なんで」 「…神田の奥さんがいてこその、あの家だったんよ。家を出て行く二日前に危篤状態でなあ、芙由ちゃんは知らんかったと思うけれど、な、芙由ちゃんのばあさんがなあ…」 「おばあちゃんが?」
まだふらふらしたけれど、私は立ち上がり本宅へ走った。 まるで那都彦の家とは違い、相変わらず涼しいそこで、祖母は目を細めて新聞を読んでいた。
「おばあちゃん、那都彦の家に何かしたの?」 「あんた、もうおきていいのかね」 「答えて」
ふと、彼女の目が私をとらえた。「大奥さん」といわれるだけあって、貫禄がある。私よりも小さいのに、何もいえない。
「神田の家は、そもそもウチのもんだったんよ。それをばあちゃんのじいさまのときに神田のじいさまにかしてなあ。ゆりこちゃんがあんなになるまえはよかったんや。ゆりこちゃんがあんな男をつれてくるまではよかったんや。あの男、ゆりこちゃんを妊娠させて、働きもせん。死ぬまでは許しとったけどな、もう亡くなったもんで、出ていかせたわ。あの坊も一緒に行ったんじゃないかね、汚らしい。芙由子にも近づこうとしとったやろう、シゲから聞いとる。異人みたいなみてくれしおって、からにな」
何も、見えなくなる。何も考えられなくなる。めまいをおこしそうになって、またふらふらとはなれに戻った。途中シゲさんと廊下ですれ違ったけれど、彼は目を伏せていて、そもそも私はもう何も言えない。
怒り、でもない。何かわからない。
たぶん、おそらく、言葉にするなら赤ん坊をおろしてしまったときの喪失感が今、襲い掛かってきたみたいだった。 あのときは、ただ、自分の行為の愚かしさや自分自身に吐き気を覚えたけれど、今はただ救われない子どもへの罪悪感や悲しさで胸が張り裂けそうになっていた。
彼を、私の赤ん坊を、強く抱きしめてあげられたらよかった。
蒲団に突っ伏した。涙があふれてくる。
そのまま眠っていたようで、目を覚ましたら夕方だった。やわらかい夕陽が差し込んでくる。障子の向こうでヒグラシが鳴いていた。 那都彦、と書いた彼の字を思い出していた。綺麗な字だった。母親がまだ元気なときに教えてもらったのだろうか。綺麗な、字だった。 手に何か握っていて、それはあの夜に那都彦が私にたくした欠けた歯だった。せめて、この子だけでもと思って握りなおすと、尖った部分が手のひらに刺さった。痛かった。
ヒグラシの声が遠くなる。
夏が終わる。
END
***
「夏と恋する2009」という企画様に提出したもの。 おわかりでしょうが「夏」と「冬」がかかってます★← イマイチ、二人の絡みをかけなかったので残念。 でも楽しかったー!です。 続編というか、那都彦主観のもの >>なつひこ
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