ろくでなし―――――前編
物音で目を覚ましてリビングに行くと、いつもより早い時間に百合子が起きていて朝飯を作ろうとしているところだった。いつもは俺が作るのだが、寝ているので彼女は起こすことができなかったのだろう。
「あ、おはよう」 「おはよう。俺作るから、百合子座って。今日早いな」 「そー、新人が初プレゼンでがっちがちに緊張しちゃってるから見てられなくて」 「会社行くの?」 「まあしょうがない。へまされてすぐにやめられたらたまんないもん」 「いい上司をもったもんだ」 「だよねえ」
ふあ、と彼女は大きなあくびをして俺の頬にキスを一つすると、リビングに行く。インスタントコーヒー片手に新聞を読む姿は少しおじさんくさい。そんな彼女を盗み見ながら、俺は温まったフライパンにタマゴとウィンナーを落とす。じゅわりといい音を立てながら白身がじわじわと固まっていく。
「今日は?どうすんの?」 「夕方からバイト」 「深夜上がり?」 「そうそう」 「わかった。あ、目玉焼き今日は半熟がいいな」 「もう遅いよ」
黄身が完全に固まってしまった目玉焼きと、少し焼きすぎてしまったウィンナーを皿に載せて出す。昨日の夜に百合子が作りおいたサラダと、やっぱり昨日の夜にむいたので茶色くなってしまったりんごも冷蔵庫から出してテーブルに出した。彼女は相変わらず新聞を読んでいるので、余所見をしながらウィンナーにかじりついている。
「百合子、行儀悪いよ」 「もー、藤次ってばお母さんみたい、いっつも」
笑いながら新聞を折りたたみ、百合子はコーヒーを飲む。トースターから焼けたパンがぴょん、と飛び出した。別の皿に載せて出すと、彼女は俺の動きをじっと見ていてしみじみと言うのだ。
「ああ、もう本当に藤次っていい奥さんになるよ」 「あのな、俺は男の子」 「でもヒモでしょう」
言い返せないから黙るしかない。だけど、ふんふん鼻歌を歌いながらサラダも目玉焼きもトーストもリズム良くおいしそうに片付けていく彼女を見ていると、まあいっかな、とも思う。本当はよくないってこともわかってるが、百合子も今の生活がいやなわけじゃないみたいだし、一応は家賃の半分をバイトで細々ためたお金で払ってはいる。まあ食費はほとんど彼女に頼っているのが事実だが。家事はそれなりに俺がこなす。誇れることないが、恥じることもそんなにないとちょっと思ってる。実際、彼女がどんなことを思っているのかわからないが、今のところは円満ではあるのだからよしとしておこう。
「今日はちょっと遅くなると思う」
出掛けに、百合子はいつもはいている黒いハイヒールを履きながらこちらを振り返る。
「けっこうヒール磨り減ってるじゃん。俺買っとく?」 「ううん、大丈夫。今度一緒に行こう。最近一緒にでかけてなかったでしょ」
彼女はひらひら手を振って出て行った。俺はもう一眠りしようと寝室に行ってベッドにもぐりこんだ。
目が覚めると昼過ぎで、くだらない昼ドラと、ニュースとバラエティが混ざったような番組をだらだらと見た。パジャマに使っている白い無地Tシャツとジャージから、薄いピンク色のTシャツとジーンズに着替える。あまり変わりばえはしない。適当に髪の毛を撫でつけ、ひげをそりながら洗濯機を回す。色々準備したころに洗濯も終わったので、浴室に干して乾燥機をいれた。少し家賃ははるが、浴室乾燥機は便利でありがたいと思う。 帽子をかぶり、部屋を出た。
外は夏と秋の中間のようで、汗は垂れるほどかかないが歩き続ければ鼻の頭にじんわりとにじんだ。風はかわいているものの温度は高く、自分も乾燥機にかけられているような気分になる。ツクツクボウシもほとんど鳴かなくなった住宅街の夕暮れを、一人だから当然押し黙って歩いた。
申し訳程度に始めた近くのコンビニのバイトも、かれこれ1年になる。店長とパートのおばさんについで古株になった。つまり百合子との同棲も1年半経ったということになり、さらに俺が大学を卒業してから2年が経つということになる。早いのか、遅いのか、ぼんやりと暮れ行く空を見つめた。いつのまにか日暮れも早くなっていた。気づかないものだ。 たとえきっと、意識していたとしてもとめることの出来ない時間の流れは、意識しなければもっとさえぎることのできない何かになって、どんどん遠くにいってしまうようだと思う。 どうだ、この文学部の考察。
日付が変わる頃に交替で、ちょっと手持ち無沙汰だったので24時間やっているスーパーに買出しに行った。百合子はもう寝ているだろうか。ぼんやり思いながら、まだ昼間の熱が少し残っているように感じられるアスファルトを歩いた。
そうして、どんどん遠くにいってしまった時間のかけらが俺の手元に戻ってきたのは、そのスーパーでだった。
「ニワ?」
後ろから声をかけられて、逡巡し、ああ自分の学生時代のあだ名じゃないかと思って振り向いた。そこには髪の毛が、まあ女子でいう「ベリーショート」みたいな感じで、ちょっと明るい黄土色みたいな色をしていて、顔は白人みたいに白く、目も色素が薄くて人より茶色くて、と、まとめていえばハーフみたいな男が薄幸の美少年、という感じで立っていた。青年の方が正しいかもしれないが。紫色のTシャツにジーンズ、という、色さえちがえど俺とはほとんど変わらぬ服装をしているのに、彼は随分浮いて見えた。良い意味でも悪い意味でも。
「暁弥?」 「本当、久しぶりだな」
藤原暁弥。ちょっと貴族っぽい名前。 大学四年間でたぶん、一緒にいた時間がもっとも長いやつだろう。入学した当初から彼はその容姿から随分目立っていたのはいうまでもない。
今目の前にいる彼も、相変わらずこんな庶民のスーパーにいることが間違いなのではと思わせるほど白々と浮いて見えた。手には赤いカゴを持って、中にはヨーグルトと野菜ジュースがいくつか入っていた。
「連絡、とれないんだもの」
暁弥はふふ、と笑った。たまに正面から見るとかっこいいが横顔がちょっと、と言う奴やその逆の奴もいるが、牛乳を選ぶ彼の横顔ももちろん寒々とした美しさがあった。久しぶりに見たとはいえ、少し鳥肌が立つ。一般教養でとった宗教学の井上という教授が彼を見て
「君は天使か?」
とずり落ちた眼鏡をかけなおしながらため息をついていたほどだ。バカみたいな話だが本当だ。
「うそだ、来てないよ」
とぼけた調子で答えては見せたが、視線は牛乳の賞味期限表示を必死に追っていた。なんとなく彼がこちらを見ている気がしてならなかったし、流し目の彼は怖いほどに綺麗だと身をもって知っている。きっと、商品を照らすためのライトに照らされた彼の顔は、より白く、透き通っても見えるだろう。
なぜ彼が俺を横目で見るのかというと、携帯に入る彼からの連絡を俺は一切目を通してはいないからだ。彼の名前がメールボックスに増えるたびに、ディスプレイに着信表示で映るたびに、なぜだか怖くて読めなかったしとれなかった。1年間、そんなことを繰り返しているうち、彼もそんなにしぶとくはないし、季節の変わり目だったりに数回着ていた連絡はあっけなく途切れた。そうして時間はどんどん過ぎていく。気づかないうちに、彼からの着信履歴は奥へとおしやられ、メールも自然に消えていく。 暁弥は俺の、くだらない嘘に呆れているか他に何か思っているのか、きっと彼は横目で見ているに違いない。
「この辺住んでるの?」 「ああ、こっから十五分ぐらい。暁弥も?」 「うん」
スーパーを出てともに歩く。俺も彼も身長はそんなに変わらないし低いわけでもないが、大学の友人は俺たちが並んで歩いていると「美女と野獣みたいだ」と笑った。いっておくが俺はもさくはない。暁弥がずいぶん華奢なのだ。
こうして2年かそこらぶりあってみて、さらにその華奢具合に拍車がかかったように見える。店内でも思ったが、少しやつれたようにも見えたのだ。荷物の入ったビニルをさげる手首も、女のそれのように頼りなく見えるのはなぜだろう。
「なあ、お前、ちょっと痩せた?」 「かもしれない。最近食欲なくて」 「ちゃんと食えよ。もっと俺が野獣に見えるだろ」 「今度は少女と野獣、かもね」 「ほざけ」
暁弥はくつくつと、まるで本当に少女が笑うように笑う。ちょっと女っぽいところがあるよな、と入学した頃はそんな風にも言われていたはずだ。
ふと、顔を少しうつむかせて笑う彼の首筋に、ほんのりとロープのような赤い痕が見えて思わず空いているほうの手を首に伸ばした。彼はびくついて、その細い腕をぎこちなく固まらせて荷物を落とした。びちょ、と何かが飛び出る音がしたが今はそんなことどうでもよかった。
「お前、これ、なんだよ」 「ニワ、これは」 「なんだよ。ロープか?なんだ?」 「なんでも、ないんだ。なんでも」 「なんでもないわけねえだろ、お前これ」
ひやりと冷たいものが俺の腕を捕らえ、それが暁弥の指だということに気づくのに少し時間がかかった。それほど、彼の指は不気味なほどに体温を失っていたのだ。よく見れば顔は青ざめていて、それでも目はこのうす闇の中静かな光をたたえて横目で俺を見ていた。そっと自分の手を放す。 「今、一緒に、住んでいる人がそういうのが好きで、でも大丈夫。そういうの、ってわかってるし。死んだりしない」 「…それって男か?」 「…だってゲイだもの」
ああ、と、急激に後悔した。言わせてしまった。どこか遠くにいっていた時間の流れなど、もう戻すこともとめることもできないのに、今このときに言わせてしまったのだ。 暁弥は静かに体を折り曲げて、下に落ちたものを拾う。幸い袋は破れてなかったし、こぼれてもなかったがヨーグルトの容器がいびつにへこんでいた。彼は静かにはあ、とため息をついてこちらに向き直り、そうして今日俺のあだ名を呼んだときのように薄く笑った。
「ヨーグルトにハマってるんだ。それで、最近毎食ヨーグルトで。ヨーグルトどう使うか知ってる?口にいれるでしょう、そうして次は―」 「もうやめろ、やめろよ」
思わず怒鳴っていた。悲しそうな顔でそんなことをいう暁弥に、たぶん一番は自分に。
「ごめん」
暁弥は素直に謝り、俺の先をゆっくり歩いていく。隣に並ぶのを待っているようだったので、少し急いで隣に並んだ。彼の姿を見ることはもうしない。よくよく見れば、首の痕以外にも何かが目に入る気がして、俺は意気地のないことに、怖かったのだ。
「俺、ここだから」
俺はマンションの前で立ち止まる。どこかでクラクションの間抜けな音が響いた。思わず怒鳴ってしまってから、気まずくて互いに黙ったままだった。暁弥はしばらくうつむいていたが顔を上げ、やはり微笑んだ。若干、涙が目に浮かんでいるようにも見えた。
「今日は、大学時代みたいで、楽しかった」 「…ごめんな」 「ニワ、変だよ。何も謝ることなんかないだろ。連絡、するから」 「あ、ああ」
暁弥は手を振り、なぜか来た道を戻っていく。
「え、お前来た道戻ってるし」 「これぐらいの嘘なら許してよ」
意地悪く笑う彼は、大学時代と変わらない暁弥だった。
「ただいま」 「おかえり」
玄関を開けるとまだ電気がついていて、パジャマ姿の百合子がコーヒーカップを二つもって出迎えてくれた。よく俺が帰ってくるのがわかったな、と尋ねると得意げに笑ってなんとなくね、と言う。急に愛しくなって頬に軽くキスをした。
買ってきた食材なんかを冷蔵庫に入れながら、自分もヨーグルトを買っていたことに気づいた。百合子はあんまり好きじゃないし、俺もそんなに食べたいと思っていたわけでもないのに、おそらくというか絶対に暁弥の影響だろうと思った。が、あんな話を聞いた今、まったく食べたいとも思わない。
「へえ、珍しいね。ヨーグルト買ってくるなんて。私にも食べられるように料理してくれんの?」
気づかないうちに後ろに立っていた百合子が、俺の肩にアゴをおいて耳元でそう言った。かすかにするシャンプーの匂い。鼓動が一気に跳ね上がって、自分でもよくわからないうちに彼女をその場で押し倒していた。あんまりにも勢い良く押し倒してしまったので、彼女はごつんと頭をフローリングにぶつけた。
「ったぁ…もう何、いきなり」 「今日、大学のときの友達に会って」 「女の子?」 「違う」 「怪しい」 「違うよ」
女の子以上に美人だけど、とはいわなかった。が、倒れた百合子に暁弥がかさなる。彼女には悪いが、彼の方がもっと色が白くてツヤっぽくて華奢だ。女はやわらかみがあって、触れるとふよふよとした肉がいいと思う。最近ちょっと太った百合子のわき腹をふざけてつまむと、彼女は信じられない、とけたけた笑った。その笑い声を耳元で聞きながら首に唇を落とす。シャンプーの匂いがもっとする。首筋は白い。暁弥のあのロープの痕が脳裏をよぎる。記憶の中ではより白々しく浮かび上がる彼の首に、赤いロープの痕。それさえも妖艶に見えるのだからたまらない。 彼女を抱こうとしているときに、なぜ俺はこんなことを考えているのか。
押し流した、遠くへ行ってしまった、記憶の断片。 戻らない時間のかけら。
俺は一度だけ暁弥を抱いたことがある。
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