春宵 私がご飯を食べ終えて、買いためてあったみかんジュースを飲んでいると、えみちゃんが冷蔵庫の中に夕食の残りをしまいながらこっちを向いた。 「ひろちゃん、今から散歩行かあへん?最近あんまりうごいとらんでしょ」 えー、と渋ってはみるもののえみちゃんの笑顔は鉄壁で、私はいつのまにか彼女を後ろをゆっくり歩いていた。 冬の間は寒いからといってほとんど外に出ず、なんだかうごくのも億劫で車で出かけるのもなまけていたけれど、気づけば全然寒くなくなっている。ああ、春なんだな、と少ししめったような生暖かい空気の匂いが鼻をくすぐるたびに思った。風が、身を切るような寒さから、そっと頬をなでていくやわらかさに変わった。息を吐いても白くはない。冬の、寒さで体の芯がぎゅっと縮む感じも好きだけれど、春になってこれから始まるできごとに対する不安と期待でぎゅっと縮む感じも好き。体の中心が飛び出す瞬間をまつみたいに。 「ね、来てよかっただら?」 えみちゃんは私を振り返り、得意げな顔を見せる。持ってきてしまったみかんジュースを飲みながら頷いた。 近所にある公園はそれなりに大きくて、池を囲むようにある散歩コースは全長2キロはあるらしい。小さな頃からよく遊びにきていたから今では庭のようなものだけど、ここ数年はあんまりきていなくてところどころ変わったところも見受けられた。綺麗に整備されたトイレだとか、色の変わった遊具とか。大きくてすべるのが怖かった滑り台は危ないからといって、二年前に取り壊されてしまった。いろんなところが変わっていく。ふ、と息を吐きながらお腹をさすった。 池を臨む、散歩コースのちょうど中間点ぐらいのところにでた。水色のベンチにどちらとも言わず腰かける。満開の桜が外灯と月に照らされて静かな水面に映っている。いくつもならぶ外灯が月に見えて、不思議な空間のようだ。遠くから聞こえる花見客の騒ぐ声と、池を泳ぐあひるやかもの声がまじっては消えていく。程よく澄んだ空気の中で私とえみちゃんが特別に思えた。春の夜は、いいと思う。清少納言とは気が合わないなあとも思う。えみちゃんはとなりで、はぁーとお風呂に入るときみたいなため息をついた。 「えみちゃんおっさんくさいわ」 「深呼吸しとんの。やっぱ春だわ、春宵一刻値千金」 呪文みたいに言って手を伸ばしてきたので、残りのみかんジュースのパックをあげる。彼女はジュースを飲み終えるとはふっと息を吐いた。 「ああ、懐かしい、この味。これってさああれよね、甘いと思いきや後味すっぱいのがいいよねえ。あたしもさ、赤ちゃんできた頃はこのジュース飲んどったわ」 不意うちで私は黙ったが、それも想定内だったのかえみちゃんは私を見据えて笑顔をつくる。 「ひろちゃんは、姉ちゃんに言ってないことあるよね?言ってみ?」 鉄壁。 いつもは名前に「ちゃん」付けで呼ばせるくせに、こんなときだけ姉面するなんてずるい。とは思う反面、やっぱり伊達に私よりも四年長く生きていないのだとも思う。すっと手をお腹にあてた。少し冷えた指先からあたたかいお腹の温度が伝わってくる。急に愛しさが増していく気がする。 ここに今、もう一つの命がある。静かに息づく私の中の、新たな命。愛しい、命。 えみちゃんがこっちを見ている。笑っていたはずの顔はくしゃりとしわがよって、今にも泣きそうに見えた。 命を宿す自分の体がますます愛しくて愛しくてしようがなくて、同時にそんな気持ちをもう持てなくなってしまったえみちゃんを思えば悲しくて、私はわけがわからずにぽろぽろと涙をこぼした。ただただ、涙。 苦しいほどに私の命も、私の中のもう一つの命も、私より四年長く生きている命も、愛しくて大切だ。 えみちゃんの私より少し小さな手が、私の手を包む。 「あんたの中に命があることが大切なんだで、泣かんでいいでしょう」 微笑みながらそういうえみちゃんの手は暖かい。うん、と頷いても泣くので彼女はあきれたように、やっぱり微笑んだ。 落ち着いてから、ぽつりぽつりと語りだす。お腹の子の父親のこと、体の変化のこと、えみちゃんに赤ちゃんができたときのこと。 私のお腹にいる子と、数年前に流れてしまったうまれてくるはずの子を重ねているのかはわからなかったけれど、えみちゃんは優しい温度で私の手と、私のお腹を包んでくれていた。 「あたしは生めんけどさ」 彼女は立ち上がり、のびをした。ふわりとみかんジュースの匂いが漂う。 「ひろちゃんが生めるからね。あたしの分も頑張ってもらわなかんね。あたしも嬉しいしママも喜んどったよ」 「え、ママには言っとらんよ?」 「あんたね、あたしがわかっとんのにママがわからんはずがないがぁ」 えみちゃんはけらけら笑って歩き出す。あっけにとられた私もあわてて追いかけた。パパとママは今日は結婚記念日で、二人で外食をしている。もしかしたらママは今日、パパに私のことを言っているかもしれない。 「じゃ、もしかしてママはパパにこのこと言っとるかな?」 「さー、どうかな」 気が済んだのか、えみちゃんはもう上の空みたいな返事しかしない。私はドキドキしながら、それでもやっぱりやわらかい春の風を感じていると落ち着いた。少し下手なカラオケももう聞こえない。静かになった公園の道に、私とえみちゃんの影がひっそりうごく。 「ひろちゃんも赤ちゃんを産むようになったってことかやー」 「私はそれよりもすべりだいなくなっとんのが悲しいわ」 「色々、変わるってことだって」 「うーん、ね」 満開の桜と、澄んだ水面と、春の月と、私とおねえちゃん。 急に口の中に唾液があふれてきて、みかんジュースが飲みたくなる。 お腹をひとなでして、できるだけ大またで歩いた。 END *** 方言を小説に取り入れよう、という「温故知新」という企画様に提出したもの。 にゃくは愛知です。が、方言の種類がイントネーションなので文だと難しい… ですがすごく楽しく書けたと思います。ありがとうございました。 |