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「ゆう」

学校を出るとそこには彼―那都彦が立っていて、その腕をしなやかに振っていた。いつも迎えはいいというのに、彼はそんなのおかまいなしでいつもいつも迎えにやってくる。彼曰く、

「ゆうはぼんやりしてるから、心配なんだよ」

と、笑った。目は、笑っていなかった。




友達の加奈子に言わせると、那都彦はあんまりよくない男だそうだ。加奈子はあたしたち同級生の中で一番大人っぽく見えので彼女にそういうことを言われるとあたしは思わず頷いてしまいそうになる。のをこらえて、平静を装って「なんで?」 と尋ねてみると、加奈子は堰切ったように話し始めた。

「なんでって、あんた、ちゃんとあの人の顔見たことあるの?目が、だめ。目が。笑ってない。いっつも。私はあの人の顔みると、こんなこといったら失礼だけどもうなんていうの、鳥肌。たっちゃうぐらい、ダメ。綺麗、そりゃイケメン、です、けどね、ゆう、ダメだよ。そもそも出会いとかおかしいじゃん、もう、変だっ」

具体的な根拠も何もない加奈子の言い分だけど、たしかに那都彦の目はすごく特徴的だと思うのでなんともいえない。何を考えているのかわからない目。今まで出会ってきた、付き合ってきた男の子の中であんな目をした男の子は見たことがなかった。
色の薄さも、初めてだけれど、なんていうのか、ただ、怖いし、だから、魅力的。





大学にも慣れてきた頃に、アパート近くの雑貨屋でバイトをしていた。仕事自体はすごく楽しかったし、店長と先輩の飯田さんと、それをあたしだけで、メンバーが少ないからすごく仲良くなれた。
けれど一ついやなのは、大通りを挟んで向こう側に大きなホストクラブがあったところ。二十年、生まれてこの方そんなお店には行ったことがないし、行ってみたいと思ったこともない。けれど、バイトが終わるころにちょうどその店は開店準備らしくて、わらわらとそういう人たちが集まってくる。大通り沿いだから、真ん中に大きな植え込みがあってその店の様子がはっきり見えるわけでもないし、そこにあつまってくるそういう人たちがはっきりと見えるわけじゃなかったので、なんだかいやだな、と思っていた程度だった(学校の飲み会もそんなに好きじゃないから、そういうお店はそもそもあまりいいイメージがない)。

それが、一年前のある夜。秋も終わりの頃で、しとしと冷たい雨がふっていた。

店締めはたまたま一人で、ドアを鍵を閉めた後に不意に大通りの向こう側から争い声が聞こえた。びくりとして振り向くと、あの店の外で男の人が三、四人で言い争いをしている。街灯に照らされて、彼らの髪の毛だけが異様にきらきらとしていて、とはいえ夜の中だからはっきりと顔も見えないし植え込みでよくわからない。やっぱりああいう人たちって怖いな、と思って、でもちょっと好奇心がまさってしまって寒い中その様子を見つめていた。

「おめえよ、ちゃんと筋ぐらい通せや」
「っせーな、あんたに力がないからだろ」
「あぁ?」

車どおりも少ないので、会話の様子がそれとはなしに聞こえてくる。シルエットの動きもあわせてなんとなくだが、一方が一方の客をとったような、そういう会話だった。シルエットは1対4に別れていて、今にも殴りかかられそうになっている1の方。くだらない、と思って帰ろうとして大通り沿いを歩き始めたときに、大きなトラックが通った。ライトがぱっとあたり一面を照らす。

とくに意識したわけじゃなく、なんとなく、本当になんとなく向いのあの店を見た。

目があった。
なんで。
植え込みと植え込みの間から。
たった一瞬のライトの隙間から。
襟を掴まれた、その人が、あたしを見ていた。
あの、薄い瞳で。

「っゆこ―ふ、ゆこ!ふゆこ!」

細かな雨粒を散らしながらトラックが走り去っていってまたもとのうす闇に戻ったとき、たぶん、いやきっとその人はそう叫んだ。なんども、なんども、なんども。声をからしていた。あたしは怖くて、その声は絶対にあたしに向けられたものだと思って、わかっていたけれど、何がなんだかわからなくて、走った。お気に入りのパンプスで水溜りを踏みつけても、傘で走りにくかったとしても、とにかく、走った。
部屋に入ったとたん、どっと汗が流れて、とにかく気持ちが悪かった。




その一週間後、お昼休憩からもどってきてしばらくするとお客さんがやってきた。最初、事務作業をしていたので顔をあげないでいると、お客さんはつかつかと迷いなくレジ前までやってきた。床を蹴る音が高音だったので女性かと思ったら、視界に入ったのは上等な革靴。そうして下から、すらりとした黒いスーツの両足、すっきりと整ったジャケット、紺色のネクタイ、ふわふわとした茶色い髪の毛、端整な顔だち、張り付いたような笑顔。そして、あの、目。

「どーも、向かいの店のものなんですが」

堂々とした声で、この人とずっと知り合いのような気がしてしまう。

「あ、はあ、店長、なら今いないんです、が、」
「いやいや、お姉さんにたぶん迷惑かけたでしょう」
「は?」

彼はにこにこしながらレジに両手をついて、そのきれいな顔をあたしにむけてきた。正直、こういうイケメンをどう扱って良いのかわからなくて目をそらしたいのに、怖くてどうにも動けない。
笑っているのに、どこか陰鬱な目。何を見ているのか、わからない、茶色い目。

「言い争いしちゃって、ほら、先週ぐらいの、夜、かな。怖がらせちゃったかと思って」
「あ、いい、え」
「あはは、今もちょっと怖がってる」

すっと何か冷たいものが頭に乗って、それが缶ジュースだということに気づくのにしばらくかかった。

「これで許して」

彼はウィンクをして、ひらひらと手を振って出ていった。
あたしは、彼の来店を店長にも飯田さんにも言わなかった。





それから三ヶ月、彼は必ずあたしがシフトに入っているときにやってきてはジュースやお菓子を置いていった。名前も聞いた。源氏名を「ナツ」といった。その時点で、少し笑ってしまいそうで、実際、笑ってしまったのだけど、本名が「那都彦」だと聞いたときも、源氏名を聞いたときよりも笑ってしまった。なぜ?と彼は聞いてきたけれど、曖昧に笑って答えなかった。 いつも陰鬱そうな顔で、がらんどうの目をして、それなのに薄く微笑む彼は夏というよりも、秋、という雰囲気がよく似合うような気がしたから。

彼が雑貨屋にくるようになって半年して、あたしたちは付き合うようになった。

あたしと付き合うようになって彼はその仕事をやめて、あたしのアパートに居つくようになって、今に至る。家のことはほとんど彼がやってくれていて、しかも家賃も半分出してくれていて、なんだか悪いような気がするけれど加奈子ちゃん的にはそれが当たり前だ、と鼻息荒く言う。

那都彦は、とてもよい彼氏のような気がする。

ただ一つ引っかかるのは、あの夜、さけんだ「ふゆこ」という名前。
だけど、それを問うてみたことは一度もない。






「今日は夕飯、何がいい」

しずかに車を動かして、那都彦は若干声を弾ませながらあたしに尋ねてくる。何がいいかなあ、とぼんやり思いながら窓の外を眺めた。秋ももうすっかり終わり、町中が茶色や灰色に染まっているように見える。クリスマスをすぎればすぐに年が変わってしまうなあ、と、ふ、と息を吐いたときに那都彦があたしの頭を引き寄せて、額にキスをした。信号は赤。びっくりした。

「な、なあに」
「今、ゆう、ほかのこと考えてた」
「そんなこと、ないよ」
「ある。ゆう、すぐに答えないと不安になるって、いつも言ってるのに」
「ごめん」
「怒ってないよ」

車が動き出す。エアコンから出る空気は少しかび臭くて、でもキライじゃない。額の辺りがぽっと熱い気がした。




結局、夕飯はホワイトシチューとコールスローだった。もちろん那都彦がほとんどつくってくれて、あたしは食器を運んだりお箸を並べたりするだけ。それでいいよと那都彦は笑う。だから、まあいいのかな、と思ってそんな雑用をあたしは精一杯こなす。こうしているのが幸せで、そういう優しい那都彦が好きで、だから加奈子がいくらぶうぶう言っても真剣に考えることができないのだ。加奈子は

「ちゃんと、『ふゆこ』のことだってはっきりさせておかないとダメでしょ、もしかしたら浮気してたらどーすんのよ」

とイライラ声で言ってくるけれど、実際に那都彦が浮気をしているようなそぶりはまったく見えない。というかほとんどうちの家事をしてすごす彼が、浮気する暇なんかあるのかな、と思ってしまう。那都彦はいつもその日見たテレビの内容とか、スーパーで何が安いとか、もうすぐどこでセールが始まるとか、そういうことを教えてくれる。週末もあたしがバイトや学校の用事でいないとき以外は、一緒にどこかに出かけるし本当に浮気、なんていう言葉、彼を見ていても浮かんでこない。 ただ、そんなのじゃなくて「ふゆこ」っていうのはもっと、違う次元にあるんじゃないかと思う。けれど、聞いたってどうしようもないだろうし、あたしは何も言わない。



ご飯を食べ終え、バラエティー番組を二人で見ていると窓から伝わってくる冷気が寒くてベッドに腰掛けていた那都彦にくっついた。足を伸ばしていたところに頭を乗せてみると、彼はしずかに頭をなでてくれる。

「寒くなったね」
「そうだね。朝とか、ゆう、風邪ひかないでね」
「引かない。でも、あたし、冬がすき」

何がひっかかったのか、那都彦の手が止まった。

「ん?」
「あ、いや、なんでもない」

また手が動き出す。

「ねえ、那都彦はいつが一番好き?」
「いつ、って?」
「季節。あたしは冬。寒いけど、お鍋食べるとすっごく幸せになるし、コートが好きなんだ」
「…俺は―」
「ね、やっぱり、夏が好き?」

彼は答えなかった。けれど、あたしはとくに気にならなくって彼の膝枕がごつごつとしていてあんまり気持ちよくないことがすこし面白くて、指先でつついてみるとやめなさい、と那都彦が優しく言ってキスをした。


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