sing a song 彼女は必死に指を動かし、僕に何かを訴えてくる。 静かな病室で、響くのは彼女に取り付けられた呼吸器の微かな音と 彼女がまだ生きている、ということを示す電子化された心拍音。 細くやせた指が中を舞い、僕に伝える言葉。 本当は二人で福祉の仕事に就きたいからと覚えた手話と指文字。 こんなところで役に立つなんて。 僕は訴えを聞いて、枕元に近づいた。 口に張り付いた呼吸器をはずす。 彼女はうれしそうに微笑んだ。 口を合わせた。 キスじゃない。 そのまま唇を動かした。 「I'm on the top of the world looking…」 二人がひとつの歌を歌う。 僕が涙をこぼすと、彼女は僕の背中に何かを書く。 『しょっぱい』 ふふ、と笑ったのが唇越しに伝わった。 ――― 誰かじゃなくて。 車でシロを待っていると、ぱらぱらと雨が降ってきた。 本降りになる前の、このぱらぱら音がしながら窓に当たるのは好きだ、と サユはなんとなく思う。雨は嫌いだが。 雨が降り始めてしばらくして、シロが買い物を終えて帰ってきた。 彼は週に一回はサユを連れ出す。 ゆっくりと車が発進した。 冬、しかも雨が降っているのもあってか、五時前なのにもう暗い。 前の車のテールランプや遠くのビルの明かりが窓の雨ににじんでひろがる。 光の尾が伸びて、それがきれいだった。 シロは相変わらず一人で話している。 今日の夕飯のことだとか、今日が誕生日の芸能人の話だとか。 サユはそれを右肩でうけとめて、聞いていた。顔は見ない。 ふと、シロの声が変わる。 「誰かじゃなくてさ」 やっと、顔を向けた。しかし彼は前をまっすぐ見ている。 「誰かじゃなくて、俺にはサユがいたらいいんだ。 お前が俺に生きていてくれっていってくれたら 愛してるって言ってくれたら 愛してくれって言ってくれたら 俺はそれだけで生きていける、愛してやれる」 降っているはずの雨だったが、音は聞こえなかった。 周りの景色ばかりがにじむ。 「だから、俺も、サユにとってのそういうのになりたい。 誰かじゃなくて、お前の、大切な人でありたいと思う。 だからさ、もう死ぬとか思わないでくれよ。 お前が生きてるだけで、もうそれでいいんだ」 シロが、左手をハンドルから放してサユの右手首をなでた。 ぼこぼことした、いくつもの横線が交差している。 サユはそこで初めて、 雨はいつの間にかやんでいて 自分の瞳に涙がにじんでいることに気づいた。 そして、シロの指をいとしいと思う自分にも、気づいた。 ――― Good morning, My favorite things. 目がさめた。だけど、まだ暗い。 しんと冷えた部屋は、私が王様だ。 しばらくベッドに転がっていたけれど、静かに出て行く。 冷たいフローリンクはしっかりと眠気を飛ばすのに便利。 じっとしていると目が慣れてきたから、暗い中でコーヒーをいれた。 少し焦げ臭いけれど、その匂いが大好きだ。 ごくり、と一口。 しんみり二口。 笑って三口。 おいしい。 そのうちすずめが鳴き始める。 空が白んでくる。 空気が温まってくる。 遠くでクラクションが鳴る。 新聞が届く。 いとしい彼がおはようを言いにやってくる。 そして私も笑顔でおはようと返す。 なんの変哲もない毎日、毎朝繰り返す当たり前の習慣。 おはよう、すべてのいとしいものたち。 私の、すべて。